もちろんどうでもいいのだ。そのわけは? つまり趙太爺に間違いのあるはずはなく、阿Qに間違いがあるのに、なぜみんなは殊の外彼を尊敬するようになったか? これは箆棒《べらぼう》な話だが、よく考えてみると、阿Qは趙太爺の本家だと言って打たれたのだから、ひょっとしてそれが本当だったら、彼を尊敬するのは至極穏当な話で、全くそれに越したことはない。でなければまた左《さ》のような意味があるかもしれない。聖廟《せいびょう》の中のお供物のように、阿Qは豬羊《ちょよう》と同様の畜生であるが、いったん聖人のお手がつくと、学者先生、なかなかそれを粗末にしない。
 阿Qはそれからというものはずいぶん長いこと偉張《いば》っていた。
 ある年の春であった。彼はほろ酔い機嫌で町なかを歩いていると、垣根の下の日当りに王※[#「髟/胡」、133−4]《ワンウー》がもろ肌ぬいで虱《しらみ》を取っているのを見た。たちまち感じて彼も身体がむず痒《がゆ》くなった。この王※[#「髟/胡」、133−5]は禿瘡《はげがさ》でもある上に、※[#「髟/胡」、133−6]《ひげ》をじじむさく伸ばしていた。阿Qは禿瘡《はげがさ》の一点は度外に
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