Qは三歩退き、遂にまた二人とも突立った。およそ半時間……未荘には時計がないからハッキリしたことは言えない。あるいは二十分かもしれない……彼等の頭はいずれも埃がかかって、額の上には汗が流れていた。そうして阿Qが手を放した間際に小Dも手を放した。同じ時に立上って同じ時に身を引いてどちらも人ごみの中に入った。
「覚えていろ、馬鹿野郎」阿Qは言った。
「馬鹿野郎、覚えていろ」小Dもまた振向いて言った。
この一幕《ひとまく》の「竜虎図」は全く勝敗がないと言っていいくらいのものだが、見物人は満足したかしらん、誰《たれ》も何とも批評するものもない。そうして阿Qは依然として仕事に頼まれなかった。
ある日非常に暖かで風がそよそよと吹いてだいぶ夏らしくなって来たが、阿Qはかえって寒さを感じた。しかしこれにはいろいろのわけがある。第一腹が耗《へ》って蒲団も帽子も上衣《うわぎ》もないのだ。今度棉入れを売ってしまうと、褌子《ズボン》は残っているが、こればかりは脱ぐわけには行《ゆ》かない。破れ袷が一枚あるが、これも人にやれば鞋底の資料になっても、決してお金にはならない。彼は往来でお金を拾う予定で、とうから心掛けていたが、まだめっからない。家の中を見廻したところで何一つない。彼は遂におもてへ出て食を求めた。
彼は往来を歩きながら「食を求め」なければならない。見馴れた酒屋を見て、見馴れた饅頭を見て、ずんずん通り越した。立ちどまりもしなければ欲しいとも思わなかった。彼の求むるものはこの様なものではなかった。彼の求むるものは何だろう。彼自身も知らなかった。
未荘はもとより大きな村でもないから、まもなく行《ゆ》き尽してしまった。村|端《はず》れは大抵水田であ[#「水田であ」は底本では「水あ田で」]った。見渡す限りの新稲《しんいね》の若葉の中に幾つか丸形の活動の黒点が挟まれているのは、田を耕す農夫であった。阿Qはこの田家《でんか》の楽しみを鑑賞せずにひたすら歩いた。彼は直覚的に彼の「食を求める」道はこんなまだるっこいことではいけない思ったから、彼は遂に靜修庵《せいしゅうあん》の垣根の外へ行った。
庵のまわりは水田であった。白壁《しらかべ》が新緑の中に突き出していた。後ろの低い垣の中に菜畑があった。
阿Qはしばらくためらっていたが、あたりを見ると誰も見えない。そこで低い垣を這い上って何首烏《かしゅう》の蔓《つる》を引張るとザラザラと泥が落ちた。阿Qは顫える足を踏みしめて桑の樹に攀《よ》じ昇り、畑中《はたなか》へ飛び下りると、そこは繁りに繁っていたが、老酒《ラオチュ》も饅頭も食べられそうなものは一つもない。西の垣根の方は竹藪で、下にたくさん筍《たけのこ》が生えていたが生憎ナマで役に立たない。そのほか菜種があったが実を結び、芥子菜《からしな》は花が咲いて、青菜は伸び過ぎていた。
阿Qは試験に落第した文童のような謂れなき屈辱を感じて、ぶらぶら園門の側《そば》まで来ると、たちまち非常な喜びとなった。これは明かに大根畑だ。彼がしゃがんで抜き取ったのは、一つごく丸いものであったが、すぐに身をかがめて帰って来た。これは確かに尼ッちょのものだ。尼ッちょなんてものは阿Qとしては若草の屑のように思っているが、世の中の事は「一歩|退《しりぞ》いて考え」なければならん。だから彼はそそくさに四つの大根を引抜いて葉をむしり捨て著物の下まえの中に蔵《しま》い込んだが、その時もう婆《ばば》の尼は見つけていた。
「おみどふ(阿弥陀仏)、お前はなんだってここへ入って来たの、大根を盗んだね……まあ呆れた。罪作りの男だね。おみどふ……」
「俺はいつお前の大根を盗んだえ」阿Qは歩きながら言った。
「それ、それ、それで盗まないというのかえ」と尼は阿Qの懐ろをさした。
「これはお前の物かえ。大根に返辞をさせることが出来るかえ。お前……」
阿Qは言いも完《おわ》らぬうちに足をもちゃげて馳《か》け出した。追っ馳けて来たのは、一つのすこぶる肥大の黒狗《くろいぬ》で、これはいつも表門の番をしているのだが、なぜかしらんきょうは裏門に来ていた。黒狗はわんわん追いついて来て、あわや阿Qの腿《もも》に噛みつきそうになったが、幸い著物の中から一つの大根がころげ落ちたので、狗は驚いて飛びしさった。阿Qは早くも桑の樹にかじりつき土塀を跨いだ。人も大根も皆|垣《かき》の外へころげ出した。狗は取残されて桑の樹に向って吠えた。尼は念仏を申《まお》した。
尼が狗をけしかけやせぬかと思ったから、阿Qは大根を拾う序《ついで》に小石を掻き集めたが、狗は追いかけても来なかった。そこで彼は石を投げ捨て、歩きながら大根を噛《かじ》って、この村もいよいよ駄目だ、城内に行《ゆ》く方がいいと想った。
大根を三本食ってしまうと彼は已《すで》に
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