たのか。そんなことはありそうにも思われない。
阿Qは拠所《よんどころ》なく彳《たたず》んだ。
遠くの方から歩いて来た一人は彼の真正面に向っていた。これも阿Qの大嫌いの一人で、すなわち錢太爺の総領息子だ。彼は以前城内の耶蘇《やそ》学校に通学していたが、なぜかしらんまた日本へ行った。半年あとで彼が家《うち》に帰って来た時には膝が真直ぐになり、頭の上の辮子が無くなっていた。彼の母親は大泣きに泣いて十幾幕も愁歎場《しゅうたんば》を見せた。彼の祖母は三度井戸に飛び込んで三度引上げらた。あとで彼の母親は到処《いたるところ》で説明した。
「あの辮子は悪い人から酒に盛りつぶされて剪《き》り取られたんです。本来あれがあればこそ大官《たいかん》になれるんですが、今となっては仕方がありません。長く伸びるのを待つばかりです」
さはいえ阿Qは承知せず、一途に彼を「偽|毛唐《けとう》」「外国人の犬」と思い込み、彼を見るたんびに肚《はら》の中で罵《ののし》り悪《にく》んだ。
阿Qが最も忌み嫌ったのは、彼の一本のまがい辮子だ。擬《まが》い物と来てはそれこそ人間の資格がない。彼の祖母が四度《よど》目の投身をしなかったのは善良の女でないと阿Qは思った。
その「偽毛唐」が今近づいて来た。「禿《は》げ、驢《ろ》……」阿Qは今まで肚の中で罵るだけで口へ出して言ったことはなかったが、今度は正義の憤《いきどお》りでもあるし、復讎の観念もあったかた、思わず知らず出てしまった。
ところがこの禿の奴、一本のニス塗りのステッキを持っていて――それこそ阿Qに言わせると葬式の泣き杖《づえ》だ――大跨《おおまた》に歩いて来た。この一|刹那《せつな》に阿Qは打たれるような気がして、筋骨を引締《ひきし》め肩を聳《そびや》かして待っていると果して
ピシャリ。
確かに自分の頭に違いない。
「あいつのことを言ったんです」と阿Qは、側《そば》に遊んでいる一人の子供を指さした。
ピシャリ、ピシャリ。
阿Qの記憶ではおおかたこれが今まであった第二の屈辱といってもいい。幸いピシャリ、ピシャリの響《ひびき》のあとは、彼に関する一事件が完了したように、かえって非常に気楽になった。それにまた「すぐ忘れてしまう」という先祖伝来の宝物が利き目をあらわし、ぶらぶら歩いて酒屋の門口《かどぐち》まで来た時にはもうすこぶる元気なものであった。
折柄《おりから》向うから来たのは、靜修庵《せいしゅうあん》の若い尼であった。阿Qはふだんでも彼女を見るときっと悪態を吐《つ》くのだ。ましてや屈辱のあとだったから、いつものことを想い出すと共に敵愾心《てきがいしん》を喚起《よびおこ》した。
「きょうはなぜこんなに運が悪いかと思ったら、さてこそてめえを見たからだ」と彼は独りでそう極めて、わざと彼女にきこえるように大唾を吐いた。
「ペッ、プッ」
若い尼は皆目《かいもく》眼も呉れず頭をさげてひたすら歩いた。すれちがいに阿Qは突然手を伸ばして彼女の剃り立ての頭を撫でた。
「から坊主! 早く帰れ。和尚が待っているぞ」
「お前は何だって手出しをするの」
尼は顔じゅう真赤にして早足で歩き出した。
酒屋の中の人は大笑いした。己れの手柄を認めた阿Qはますますいい気になってハシャギ出した。
「和尚はやるかもしれねえが、おらあやらねえ」彼は、彼女の頬《ほっ》ぺたを摘《つま》んだ。
酒屋の中の人はまた大笑いした。阿Qはいっそう得意になり、見物人を満足させるために力任せに一捻りして彼女を突放した。
彼はこの一戦で王※[#「髟/胡」、138−9]のことも偽毛唐のことも皆忘れてしまって、きょうの一切の不運が報いられたように見えた。不思議なことにはピシャリ、ピシャリのあの時よりも全身が軽く爽やかになって、ふらふらと今にも飛び出しそうに見えた。
「阿Qの罰《ばち》当りめ。お前の世継ぎは断《た》えてしまうぞ」遠くの方で尼の泣声がきこえた。
「ハハハ」阿Qは十分得意になった。
「ハハハ」酒屋の中の人も九分《くぶ》通り得意になって笑った。
第四章 恋愛の悲劇
こういう人があった。勝利者というものは、相手が虎のような鷹のようなものであれかしと願い、それでこそ彼は初めて勝利の歓喜を感じるのだ。もし相手が羊のようなものだったら、彼はかえって勝利の無聊《ぶりょう》を感じる。また勝利者というものは、一切を征服したあとで死ぬものは死に、降《くだ》るものは降って、「臣誠惶誠恐死罪死罪《しんせいこうせいきょうしざいしざい》」というような状態になると、彼は敵が無くなり相手が無くなり友達が無くなり、たった一人上にいる自分だけが別物になって、凄《すさま》じく淋しくかえって勝利者の悲哀を感じる。ところが我が阿Qにおいてはこのような欠乏はなかった
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