秘密の庭
THE SECRET GARDEN
チェスタートン Chesterton
直木三十五訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)巴里《パリー》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)全|欧羅巴《ヨーロッパ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)竪《たて》にも[#「竪《たて》にも」は底本では「堅《たて》にも」]
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        一

 巴里《パリー》の警視総監であるアリステード・ヴァランタンは晩餐におくれた。そして来客達はもう彼より先きに来はじめていた。それで忠実な執事のイワンがお相手をしていた。イワンは顔に刀傷《かたなきず》の痕のある、そして灰色の口髭と色別《いろわけ》のつかないような顔色をした老人で、いつも玄関のテーブルに――そこには武器類がかかっている――に控えている。この家は主人のヴァランタンと同様に風変りで有名である。旧い家で、高い外塀と、セイヌ河の上に乗出しているヒョロ高いポプラの樹とを持っているがこの家の建築上の風変りな点は――そしておそらくはその警察的価値は――すなわち、この家には、イワンと武器とががん張ってる表の入口からするのでない以上は、はいっても出たというものがない事だ。庭は広くてよく手入れが行《ゆ》き届いていた。そして家の中からその庭への出口はたくさんあった。が庭から世の中への出口がないのだ。周囲は高くて滑々《すべすべ》で登る事の出来ない塀にとりかこまれて、塀の上には盗難よけの釘が列をつくっている。この庭は、百人に近い犯罪家に首をつけ狙われている男にとっておそらく悪るい庭ではない。
 イワンが来客への申訳によると主人から先刻電話がかかって、十分ほど遅くなるからとの事であった。ヴァランタンは実は死刑執行やその他の厭《いま》わしい事務についての最初の手配りをしていたのだ。そうした仕事は腹の底から不快なことであったが彼はそれをテキパキと片づけるのが常であった。犯人の追跡には無慈悲な彼も刑罰には非常に寛大であった。彼が仏蘭西《フランス》の――否、広く全|欧羅巴《ヨーロッパ》にまたがっての――警察制度の支配者となって以来、彼の影響は、名誉にも刑罰の軽減、監獄の浄化等いう方面に及んだことである。彼はフランスの偉大な人道主義的自由思想家の一人であった。
 ヴァランタンが帰宅した時はもう燕尾服を着て胸に赤バラをかざしていた――上品な姿――黒い髯にはすでに白いものを交ぜていた。彼は家にはいると真直に、庭に面した自分の書斎へ通った。庭への出口が開いているので、彼は事務机の上の小函に注意深く鍵をかけて後、しばらくその戸口の所で庭を眺めた。鋭どい月が嵐の名残のちぎれ雲と戦っていた。ヴァランタンは科学者肌の人には珍ずらしい物想わし気な面持でそれを見つめた。たぶんこうした科学者的性格の人間には生活上に何か非常に恐畏すべき問題の起るような場合、心霊上の予感があるらしい。しかしそうした一種の神秘な気分から、少なくとも彼はたちまち我れにかえった。自分は遅れたこと、客がすでに来はじめている事をよく知っているので。彼は客間へはいってちょっと見渡したが、今夜の主賓が未だ来ていない事がわかった。外の主だった人は皆揃っていた。そこには英国大使のガロエイ卿がいた――林檎のような赤ら顔をした癇癪持らしい老人で、青いリボンのガーター勲章をつけている。ガロエイ夫人もいた。銀色の髪の毛を持ち、聡明らしい上品な面持をした鶴のような姿の女性だ。娘のマーガレット・ブレーアムという青白い可愛い、いたずらっ子らしい顔と銅色の髪の毛を持った少女もいた。また黒眼で豊まんな、モン・サン・ミシェル公爵夫人が、同じように黒眼で福々しい、二人の娘を連れて来ていた。眼鏡をかけ、褐色の髯をたくわえた、典型的のフランス式科学者シモン医学博士もいた。彼の額には太い皺が幾筋となく走っているが、これは博士が尊大で、絶えず眉毛をビクビクとつり上げるところから生じた報いだ。英国エセックス州コブホールの僧侶|師父《しふ》ブラウンもいた。主人が最近英国で近づきになった人であった。それからヴァランタンは――他の誰よりも多くの興味をもって――丈《せい》の高い一人の軍服姿の男を見た。この男は英国大使一家の人達に挨拶をしたのだが。あまり快い礼を返されなかったので、今度は主人の方へ敬意を表しにやって来た。彼は仏蘭西《フランス》遣外駐屯軍の司令官のオブリアンという男である。痩せてはいるが、幾分威張って歩きたがる男で、黒い髪と碧い眼を持ち、髭には叮嚀《ていねい》に剃刀《かみそり》があてられている。敗戦に勝利を得、自殺に成功した有名な聯隊の将校としては自然であるように、彼は突貫的な、また幽欝な風ぼうを備えていた。生れは愛蘭土《アイルランド》で、子供時代に英大使ガロエイ氏一家――ことに娘のマーガレット・ブレーアムと馴染だった。彼は借金を踏倒して国を逃出し、今では軍服、サーベル、拍車で歩きまわって、英吉利《イギリス》風の礼儀をすっかり忘れてしまっている。大使の家族に礼をした時、ガロエイ卿と夫人とは無愛想に首を曲げただけで、マーガレット嬢は傍《わき》を向いてしまったのである。
 しかし、昔馴染のこれらの人達がお互にどんなに興じ合っていようとも、主人のヴァランタンは彼等の特に興味をもったのではない。彼等のうちの一人だって、少なくとも今夜の客とはいえないのだ。ある特別な理由で、彼はかつて米国で堂々たる大探偵旅行を企てた時に知己になった世界的に有名な男を待っていた。彼はジュリアス・ケイ・ブレインと言う数百万|弗《ドル》の財産家の来るのを待っていたのだ。このブレインが群小宗教に寄附する金は人をアッといわせるほど巨大なもので、英米の諸新聞のいい噂の種となったものである。そのブレインが無神論者であるのか、モルモン宗徒であるのか、基督《キリスト》教信仰治療主義者であるのか、それは誰にもわからなかった。が、彼は新らしい知識的宣伝者と見れば、どんなものにも即座に金を注ぎ込んだ。彼の道楽の一つは、アメリカ沙翁《さおう》の出現するのを待つことだった――魚釣よりも気の長い道楽だが。彼はワルト・ホイットマンを称讃した、しかしパリのタアナーはいつかはホイットマンよりももっと進歩的であったと考えた。彼は何によらず進歩的と考えられるものが好きであった。彼はヴァランタンを進歩的な男だと思った――それが恐るべき間違いの原因となった。
 そのブレインもまもなく姿を現わした。彼は巨大な、横にも竪《たて》にも[#「竪《たて》にも」は底本では「堅《たて》にも」]大きな男で、黒の夜会服にすっかり身を包んでいた。白髪を、独逸《ドイツ》人風に綺麗にうしろへ撫でつけていた。赤ら顔で、熱烈な中にも天使のような優しさがあって、下唇の下に一ふさの黒髯を蓄えている。これがなければ嬰児のように見えるであろう顔に、芝居風な、メフィストフェイス([#ここから割り注]「ファウスト」の中に出て来る悪魔[#ここで割り注終わり])もどきの外観を与えるのであった。けれども、今客間の連中はこの有名な亜米利加《アメリカ》人に見とれてばかりはおられなかった。彼の遅刻がすでに客間の問題になっていたのである。そこで彼はガロエイ夫人に腕をかしながら、大急ぎで、食堂へとせき立てられた。
 マーガレット嬢があの危険千万なオブリアンの腕を取らない限りは、彼女の父は全く満足されていた。しかも彼女はそうせずに、行儀よくシモン博士と這入って行った。それにもかかわらず、老ガロエイ卿は落つきがなく無作法であった。彼は食事中に充分に社交的であった、がしかし、喫煙が終って、若手の方の三人――シモン博士と、坊さんのブラウンと、外国の軍服に身を包んだ亡命客で危険なオブリアン司令官とは、温室の方で婦人達と話したり、煙草を喫んだりするために、いつの間にか消えてしまった時、それからというもの、英国外交官のガロエイ卿はすこぶる社交的でなくなった。彼は破落戸《ごろつき》のオブリアンが、マーガレットに何か合図でもしはしないかと時々刻々そればかり気にしていた。彼は一切の宗教を信仰する白頭の米人なるブレインと、何ものをも信ぜぬ胡麻塩頭の仏人ヴァランタンと、[#「、」は底本では「。」]たった三人取残されて珈琲《コーヒー》をのんでいた。主人とブレインとは互に議論を戦わしたが、二人ともガロエイ卿に助けを乞《こお》うとはしなかった。しばらくするとその討論もひどくだれ始めた。ガロエイ卿もそこを立上って客間を目指した。が長い廊下で七八分間も道に迷った。やがてシモン博士の甲高い、学者ぶった声、次で坊さんの一向パッとしない声、最後に一同のドッと笑う声がきこえた。彼等もまたたぶん、「科学と宗教」の話しをしているのだろうと推量して、ガロエイ卿はにがにがしく思った。だが彼が客間の扉《ドア》をあけると、彼はそこに司令官のオブリアンの居ない事を、また娘のマーガレットも居ない事を見てとった。
 彼は食堂を出て来たように客間を去って、再び廊下を踏みならしながら歩いた。やくざ者のオブリアンの手から娘を護らなくてはならないという考えで、今にも頭が狂いそうな気がした。彼は主人の書斎のある裏手の方に行《ゆ》くと、娘のマーガレットが真青な、侮辱を受けたような顔をしてバタバタと駈出して来るのに出遭ってびっくりしてしまった。もし娘がオブリアンと一緒にいたのだとすれば、オブリアンの奴は今どこにいるのだろう? もし娘がオブリアンと一緒にいなかったとすれば、娘は今までどこにいたのだろうか? 彼は一種の狂的な疑惑の念にかられて、家の暗い奥の方へとはいって行《ゆ》くと、偶然、庭の方へ通じてる勝手口を発見した。半月刀のような月は嵐の名残の雲を払いつくして皎々たる光を庭中の隅々に投げていた。彼はその時青い服を着た丈《せい》の高い姿が芝生を横ぎって主人の書斎の方へ大股に歩いて行《ゆ》くのを見た。軍服の襟や袖に銀白色に輝く月光の一閃で、それは司令官のオブリアンであることがわかった。
 その人影は仏蘭西《フランス》式の窓をくぐり抜けて、建物の中へ消え去った。ガロエイ卿を苦々しいような、または茫漠としたような、一種不思議な気分の中に取残して、劇場の場景のような銀青色の庭は何だか彼を嘲ってるように思われた。オブリアンの大股な洒落者らしい歩みぶり――ガロエイ卿は自分は父親ではなく、オブリアンの恋敵でもあるような気がして、腹が立った。月光は彼を狂わしくした。彼は魔術にかけられてワトオ(フランスの画家)の仙女の国に遊ぶような気がした。それで、そうした淫蕩な妄想を振落したいものと思って、彼は足早く敵《かたき》の跡を追うた。すると草の中で木か石のようなものに足を引掛けた。つぎの瞬間、月と高いポプラの樹とがただならぬ光景を見下ろしていた――英国の老外交官が大声を張りあげて喚きながら走って行く姿を。
 彼の嗄《しゃが》れた叫声《さけびごえ》をききつけて一つの青い顔が書斎の戸口に現われた、シモン博士の光った眼鏡と心配気な眉毛が、博士はガロエイ卿の叫声をききつけた最初の人であった。ガロエイ卿はこう叫んでいた。
「草ッ原に死骸が――血みどろの死骸が!」オブリアンの事等は少なくとも、彼の心から全く消え去ってしまっていた。
「ではヴァランタンに伝えなくてはなりますまい」と博士は相手が実見した事実を途ぎれ途ぎれに語った時、こういった。「しかし警視総監その人がここに居られるのは何より幸せです」
 彼がこういっている時に、大探偵のヴァランタンが叫声を聞きつけて書斎へはいって来た。彼は来客中の誰か、あるいは召使が急病をでも起したのではないかと気遣って、一家の主人または一個の紳士の懸命をもって駈付けたのだ。戦慄すべき凶事のことをきかされて、彼の威厳はたちまちに職業柄の活気を呈して来た。なぜならばいかにそれが戦慄すべき突発事なりとも、これは彼の仕事であったから。
「不思議ですなア、皆さん」一同が急いで庭へ下り立った時ヴァランタンは云った。「世界中至る
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