るかね?」総監が部屋を出て行《ゆ》くとシモン博士が訊ねた。
「一つございますが」とイワンは灰色の老顔を皺くちゃにしていった。「それがまた重大な事でございますよ。庭にたおれていたこのやくざ野郎のことでございますがな」と彼は黄色い頭をした大きな黒い死体を無遠慮に指さした、「とにかくあの男の身元がわかったのでございます」
「ホウ! 何者だと?」驚いた博士が叫んだ、「彼の名はアーノルド・ベッケルと申しますが、色々の変名を使っておったのです。渡り者の無頼漢で亜米利加《アメリカ》へも渡ったことがあるという事でございます。そんな関係でブレインに殺されたんでしょう。我々にはあまり厄介もかけませんでした。大抵|独逸《ドイツ》で働いておったんですからな。もちろん独逸《ドイツ》の官憲にも照会いたしましたが、奇妙な事には、こやつにはルイ・ベッケルという双生児《ふたご》の兄弟があって、それは我々になかなか深い縁があるのでございますがな、実は、昨日そやつを断頭台にかけたばかりだという事がわかったのでございますよ、皆さん、全く妙な話ですが、私昨日庭でこの死体を見た時に、私はあんな驚いた事はありませんでしたよ。もし私がルイ・ベッケルの死刑をこの眼で見なかったら、芝生に横になっていた奴をルイ・ベッケルだと断定したに違いありませんなア。それでもちろん私は独逸《ドイツ》にいるそやつの双生児《ふたご》兄弟を憶出《おもいだ》して、それから手がかりをたどって――」
 話し続けていたイワンは、誰も彼の話に耳を傾けていなかった事に気づいてお饒舌《しゃべ》りをやめた。司令官と博士とは師父ブラウンが棒立ちになって、急激な苦痛を訴える人のように、彼の頭をしっかりと抱えている様子を見ておどろいて見つめていた。
「待った、待った、待った!」と彼は叫んだ、「ちょっと話すのを待たっしゃい、わしは半分ばかり解って来たからな。神様はわしに力を与えて下さるだろうか? 神よ助けたまえ! わしは考える事がかなり上手なのだがわしは昔はアクイナス([#ここから割り注]十三世紀伊太利の哲学者[#ここで割り注終わり])の本等はどの頁《ページ》でも解釈が出来たものだ。わしの頭が割れるか――ただしはこれを見抜くか? わしは半分は解せた――わしはただ半分だけ解せた」
 彼は両手に頭を抱えた、そして沈思かあるいは祈りのはげしい責苦にあっているように立上った、一方他の三人は彼等の混乱せる十二時間のこの最後の怪事をただじっと見るばかりであった。
 師父ブラウンの手が下りた時に、彼等は子供のように若々しい真顔になった。彼は大きい溜息をついて、そして云った、「大急ぎでかたをつけるとしましょうかな。そうじゃ、あなたがたに手っ取り早く呑み込ませるには」と彼は博士の方に向った、「シモン博士、あなたはなかなか鋭い頭脳を持っておられますな。わしは今朝あなたがこの事件について五箇条のえらい質問を出されたのを伺いましたわい。それで、もう一度あれをわしに御質問になれば、わしはそれに御答をして見せますがな」
 シモン博士の鼻眼鏡は疑惑と驚嘆のあまり、鼻からおちた、が彼はすぐに[#「すぐに」は底本では「すぐは」]答えていった、
「よろしい、第一の疑問は、人一人ぐらいは刺針ででも殺せるのに、なぜ無格構な軍刀等で殺したのかという事ですな」
「人間は刺針等では首を刎ねる事は出来ません」と坊さんはおだやかに云った、「しかも、この殺人には、首を刎ねるという事が絶対に必要じゃったのです」
「なぜですか?」とオブリアンは興味をもって訊ねた。
「してつぎの疑問は?」とブラウンが訊いた。
「サア、なぜ被害者は悲鳴をあげるとか、何とかしなかったのでしょう? 庭に軍刀なんていう事はたしかに類の無い事です」
「樹の枝をな」と坊さんは気難しげに云った、そして兇行の現場《げんじょう》の見える窓の方に向いた。「誰もあの小枝の光を見られなんだ、がなぜあんな枝が、他の樹からはあんなに遠くはなれている芝生の上等に、落ちておったか? あれは折取ったのではなく、切断されたものです。犯人は、軍刀で空中で枝を切る事が出来るという事を見せて、敵をあやつっておったのですな。でそれから、敵が腰をかがめてその結果を見ようとした所を、不意討ちにスパリ、そして首が落ちたという具合じゃな」
「なるほど」と博士は落着いて、「だが、次の疑問には誰れでも閉口するだろう」
 坊さんはなおも鑑定でもするように窓の外を見やって、博士の言葉を待っていた。
「御存知の通り、この庭は密閉室のように四方が封じられています、いいですか、しかるに、どうしてよその人間が庭に忍び込んだものでしょう?」と博士は云い続けた。
 振向きもせずに、坊さんは答えた、「よその人なんぞは決してはいって来はせんよ」
 ここでちょっと沈黙があった、それから突然小供らしい笑い声がその緊張を破った。ブラウンの説が莫迦々々しいので、イワンがけなし始めた。
「フン! じゃ昨晩私等が大きな死体を長椅子の上に引きずらなかったですかい? あやつは庭へ忍び込まなかったのですかい?」
「庭へかな?」とブラウンは考えこんでくりかえした、「いや、全部ははいらんかな」
「冗談じゃない、庭へはいらん者がここは居る訳がない」と博士が叫んだ。
「必ずしもそうではない」ブラウンは薄笑いをして云った、「博士、さて次の疑問は何でしたかなア?」
「あなたはどこかお悪いようですね」シモン博士は鋭く叫んだ、「だが御のぞみとあれば、つぎの疑問をお訊きしましょう。ブレインはどんな風にして庭から出て行ったのですか?」
「いやブレインは庭から出て行《ゆ》きはせん」坊さんはなお窓の外を眺めながら云った。
「庭から出て行《ゆ》かん?」と博士は爆発した。
「そっくり出て行《ゆ》き居ったわけではないて」と師父ブラウンは云った。
 シモンはたまりかねて拳を振りまわした、「庭から出て行《ゆ》かんものが、ここに居らん訳がない」と彼は叫んだ。
「必ずしもそうではない」と師父ブラウンが云った。
 シモン博士はもう耐《た》まりかねて飛上った。「私はそんな莫迦らしい議論をしておる暇はない」と腹立たしげに彼は叫んだ。もしあなたが塀の内かまたは外に居った人間のことが分らんようなら、私はもうこれ以上あなたを煩わす必要がないッ」
「博士」と坊さんは落ちついて云った。「わしらはお互にいつも大変に愉快にお交際もしとるんじゃからな。お馴染甲斐に一つ機嫌を直して、五番目の疑問をお話しして下さらんか」
 短気なシモンは扉《ドア》の近くの椅子に腰を埋めてぶっきら棒に云った。「頸と肩口とが妙な風に斬りつけられてあった。それは殺して後にやったらしいんです」
「左様」と身動きせずに坊さんは云った、「それはあなたがたが臆断したある単純なつくり事を確実に思わせるようにやった事ですて、あの首があの胴体に属した首だと思わせようとてやった仕事でな」
 師父ブラウンは遂に体を転じた、それから、窓を背にしてよりかかったので濃いかげが彼の顔に表われた。がそのかげの中にも、それが灰のように蒼白いことがよくわかった。それにもかかわらず、彼は全く上手に話《はなし》した。
「皆さん、皆さんはあの庭で、見も知らぬベッケルの死体を発見されたんではない。諸君はあの庭で、見も知らない死体を発見されたんではない。シモン博士の推理に反対して、わしはベッケルという小男はほんの一部分だけここに存在したという事を断言しますぞ。これを見なされい!」と黒衣の疑問の死体を指さしながら「諸君は諸君の生涯の中に決してその男に会いはしなかった。諸君はかつてこの男に会った事がおありじゃろうか?」
 彼は手早く見知らぬ黄ばんだ禿頭を転がして、その跡へ白髪首をあてがった。すると、そこにジュリアス・ケイ・ブレインの姿がそっくりそのまま出来あがった。
「加害者は」とブラウンは静かに語を続けた、「彼の敵の首を斬ってから刀を塀の向うへ投げ捨てた。けれども彼は悧巧であったから刀ばかりを投げはしなかった。そこで犯人はまたその首をも塀の外へ投げおった。それから彼は外の首を死体にあてがっておいた。そこであなたがたには全く別人のように思われたんじゃ」
「他の首をあてがったんですと!」オブリアンが眼を丸くして云った。「他の首とはどんな首ですか? まさか庭の草の中に首が生えたんじゃないでしょう?」
「いや」と師父ブラウンは嗄れ声で云いながら、足許を見つめて、「首の出来る所はただ一ヶ所ほかない。それは断頭台上の籠の中でな、そのそばに署長のヴァランタンさんが、兇行前一時間とは経たん前に立っておられたんじゃ。まあ、皆さん、わしを八ツ裂にする前に、もうちょっとの間わしの云う事を聴いてもらわんならんよ。論証し得べき原因で気がふれるのが公明正大だと云わるるならばですな、ヴァランタンさんは公明正大な方である。なれどもあなたがたは総監の冷やかな灰色の眼を見て気が狂ってるわいと気づかなんだですかな? 彼は十字架を迷信と呼んでな、それを打破するためには、いかなることでもやりかねなんだ。彼はそのために戦い、そしてそれのために渇求し、そのために殺人をしおったのです。ブレインさんが気狂いのように、幾百万の財を撒き散らしたが、それはあらゆる宗派に亘っとるので、決して不公平はないはずじゃ。しかしヴァランタンさんはブレインさんが[#「ブレインさんが」は底本では「ブイレンさんが」]、世の多くの気の散りやすい懐疑家と同じように、わし等の方へ漂って来おるという噂を耳にはさんだ、しかしそれは全く別の話であったんだが。とにかくブレインさんは疲弊してまた喧嘩好きな仏蘭西《フランス》教会に多大の補助を与えおった。かと思えば、『断頭台《ラギュイヨチーン》[ルビの「ラギュイヨチーン」は底本では「ラギュイヨケーン」]』の如き国家主義の新聞をも後援しおった。それで双方共怨みはないはずじゃのに、ヴァランタンさんはとうとうばく発してしもうてな、あの富豪の命を取ろうと決心してさすが大探偵らしい手段を取るに至ったわけですがな。彼は犯罪学上の研究に資せんがためとか何とかいう理由で、かの処刑されたベッケルの首を持帰った。それから食後、ブレインさんを相手に最初の議論をしてそれはガロエイ卿も最後まではその議論を聞かれなんだが、それに負けて、相手を密閉室のような奥庭へ誘い込んだ上で、撃剣術の話をして、軍刀と樹の枝を実地に使用して見せて、それから――」
 イワンがいきなり跳上った。
「この狂人《きちがい》ッ」と彼は大喝した。「サア御主人様の所へ行《ゆ》け、たとえ貴様をひっ掴んでも連れて行《ゆ》くから――」
「待て待て、わしはそこへ行《ゆ》こうと思うとるところじゃ」とブラウンは平然としていった、「わしはあの方に白状してもらわにゃならん、それで事ずみじゃ」
 一同は気の毒なブラウンを人質か犠牲《いけにえ》のように引立て、急にひっそりになったヴァランタンの書斎へなだれ込んだ。
 大探偵は机に向って、一同がはいって来るのも聞こえねげに、仕事に熱中しているかと見えた。一同はちょっと立留った。がその硬直したような上品な後姿を見ていた医者のシモン博士は何と思ったか突然前方に走りよった。ひと目見、ちょっと触ってみて、ヴァランタンの臂《ひじ》のそばに丸薬入りの小函があることを見た、人々はヴァランタンが椅子の中に冷たくなっている事を知った。



底本:「世界探偵小説全集 第九卷 ブラウン奇譚」平凡社
   1930(昭和5)年3月10日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「貴方→あなた 彼奴→あやつ・かやつ 有難う→ありがとう 或いは→あるいは 如何→いか 何時→いつ 一っぱい→いっぱい 於て→おいて 恐らく→おそらく 仰有る→おっしゃる お早う→おはよう 拘らず→かかわらず 曽て→かつて 可なり→かなり 屹度→きっと 位→ぐらい 斯う→こう 此処→ここ 御座います→ござ
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