MUJINA
小泉八雲 Lafcadio Hearn
戸川明三訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)濠《ほり》が

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]
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 東京の、赤坂への道に紀国坂という坂道がある――これは紀伊の国の坂という意である。何故それが紀伊の国の坂と呼ばれているのか、それは私の知らない事である。この坂の一方の側には昔からの深い極わめて広い濠《ほり》があって、それに添って高い緑の堤が高く立ち、その上が庭地になっている、――道の他の側には皇居の長い宏大な塀が長くつづいている。街灯、人力車の時代以前にあっては、その辺は夜暗くなると非常に寂しかった。ためにおそく通る徒歩者は、日没後に、ひとりでこの紀国坂を登るよりは、むしろ幾哩も※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]り道をしたものである。
 これは皆、その辺をよく歩いた貉のためである。

 貉を見た最後の人は、約三十年前に死んだ京橋方面の年とった商人であった。当人の語った話というのはこうである、――
 この商人がある晩おそく紀国坂を急いで登って行くと、ただひとり濠《ほり》の縁《ふち》に踞《かが》んで、ひどく泣いている女を見た。身を投げるのではないかと心配して、商人は足をとどめ、自分の力に及ぶだけの助力、もしくは慰藉を与えようとした。女は華奢な上品な人らしく、服装《みなり》も綺麗であったし、それから髪は良家の若い娘のそれのように結ばれていた。――『お女中』と商人は女に近寄って声をかけた――『お女中、そんなにお泣きなさるな!……何がお困りなのか、私に仰しゃい。その上でお助けをする道があれば、喜んでお助け申しましょう』(実際、男は自分の云った通りの事をする積りであった。何となれば、この人は非常に深切な人であったから。)しかし女は泣き続けていた――その長い一方の袖を以て商人に顔を隠して。『お女中』と出来る限りやさしく商人は再び云った――『どうぞ、どうぞ、私の言葉を聴いて下さい!……ここは夜若い御婦人などの居るべき場処ではありません! 御頼み申すから、お泣きなさるな!――どうしたら少しでも、お助けをする事が出来るのか、それを云って下さい!
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