がうまく行かないようになるという事もない。と、その計らいは評判が悪かった。
彼がこの事を大佐に告げたのは八時半であった。この時、大佐は外出の仕度をして今にも出かけようとしている所であった。大佐は探偵から委細を聞き取ったが、さほど驚いた風を現わさなかった。いや、これは大きな驚きを押さえ隠して、うろたえた場面を見せまいとしたのであろう。でも、さすがの大佐も終《つい》にたまらない風に、ドカリと椅子の上に尻餅をついて、しばしはぼんやりと口も利かなかった。探偵等はこれほどの剛気な人がと思って、その心中を十分に推察することが出来た。
まもなく自分に返った大佐は、気をとり直して陳列室に入り錦の壁布のはぎ取られた壁を改めていたが、やがてテーブルに倚《よ》ってサラサラとペンを走らせた。そして一通の手紙は探偵に渡された。
『私は今大急ぎなんです‥‥至急に訪問しなければならぬ人がありますから‥‥この手紙を、警察の方がお出でになったら渡して下さい。』
『かしこまりました。』
大佐は手紙を渡すと、いらいらして走るように出て行った。しばらくその後姿を見送っていた探偵は、その時のそわそわした落着かぬ様子を後で思い合せることがあった。
警視庁から、警視がやって来た。大佐の置手紙は開かれた。それにはこんな事が書いてあった。
[#ここから2字下げ]
愛する者に悲しみを見せるのは忍びないことであるけれど、これも運命だとあきらめてくれ。お前の名は最後まで思いつづけるであろう。
[#ここで字下げ終わり]
人々はあッとばかりに驚いた。あわれ大佐はあまりの失望から遂に自殺を決心したのである。一片の遺書はいたずらに机上にひるがえった。ああ、大佐は果して自殺するだろうか?
遺書は直ちにスパルミ[#「ミ」は底本では欠落]エント夫人に届けられた。夫人の驚きはくどくどしく説くの要はあるまい。多くの人は八方に走り出た。大佐の行先を草を分けても捜そうとするためである。婦人はその人々の吉報を今か今かと首を長うして待っていたけれど、時間は遠慮なく経つばかりで、まだ何の消息もない。
と、その日の暮れ方ヴィルダブレイという町から電話がかかって来た。ただ今トンネルの出口に顔の形もないように無残に轢殺《れきさつ》された一人の男が発見された。固《もと》より確かな根拠のあるわけではないが、その服装や所持品などから[#「ら」は底本では欠落]どうも大佐の人相書と符合する点があるというのである。
夫人は、取るものも取敢えずヴィルダブレイへ急行した。その夜の七時過、停車場前に自動車を下りると、すぐ駅内の一室に案内せられて、眼前に横《よこた》わっている一個の死体の被いを取られて見せられた。まさしく夫の死体であることを一目にして承認した。あはれにも、スパルミエント夫人エジスは、かの錦の壁布に描かれたエジス王妃と今こそ運命を同じくしたのである。
社会の同情は期せずして夫人の一身に集った。と同時に、アルセーヌ・ルパンに対する公憤はその極に達した。
輿論《よろん》を尊重する一新聞は、例の如くルパン攻撃ののろしを挙げた。
『今回の事件は、彼に対して今まで与えていた好意を零にするものである。アルセーヌ・ルパンはこれまで幾多の罪悪を犯している。しかし彼の相手たる者は、常に曖昧銀行とか、独逸《ドイツ》の華族とか、山師とか、秘密政客等であって、悪者に対して悪事を働いたのであった。中にも最も許すべき点は人を傷つけぬということである。強盗はしても人命を害するようなことは彼の避くる所であった。ところが、今回の事件はよし自分手に手を下したものでなくとも、彼の明を以てすれば明らかに自殺を予想することが出来たであろうに‥‥ここに流血の惨事を惹起した罪は到底彼の免がるべからざる所である。彼の名前に、終に紅い血汐《ちしお》が塗られた。これ神人共に許す能わざる所である‥‥』
四
知るも知らぬもスパルミエント未亡人に同情をよせた。と同時にアルセーヌ・ルパンを憎むこといよいよ甚しくなった。中にも前夜招待された人々は、殊に悲痛に心を乱し、嘆き沈んで身も世もあらぬ未亡人を取囲んでは、口には言わねど、伝説のエジスにさも似たる悲惨な身の上に涙をそそいだ。
しかしまた、遺憾なくこの窃盗に成功したルパンの非凡なる手の中《うち》には誰も舌を巻いて感嘆せぬわけにはゆかなかった。警察は直ちに盗出方法を説明した。それは陳列室の窓が三つ開け放されてあったことが探偵の調べによって判明したが、ルパンやその手下はこの窓から忍び入ったのであるというのである。
その推定は当っているかもしれない。でも第一、庭の門をどうして入ることが出来ただろう? 誰れにも見咎められず、どうして入って、どうして帰り去《さり》つることが出来ただろう? 第二に、庭を通れば壁や梯子を掛けねばならぬが、そこには何等の形跡をも、何等怪しむべき点をも見出すことが出来ないのはどうしてだろう? 第三に、あれほど周到なる警戒設備が整っているのに、邸内の電燈電鈴にいささかの故障なく、その鎧戸や鉄格子をどうして開けることが出来ただろう?
疑問の石は水の表面に投げ入れられた。波は起って広がった。
まず警戒の任にあたった三人の探偵にこの波は打ち当った。予審判事はこの三人を長い事取調べたが、そしてまた彼等の私的生活についても詳細に探られたが、三人が三人、その行為は最も正しく、いささかも後ろめたいような点はなかった。
こうして盗まれた綴れ錦の壁布――予備陸軍大佐の死に値する愛蔵――の行方はいかん? 波は広がった。いよいよ高く逆巻くように広がった。
ここに警視庁刑事主任ガニマール氏はソーニャ・クリシュノフの王冠事件の後、ルパンの部下より探知したたくさんの証拠を握って、ルパンの跡を追い廻していたが、何の得る所もなく、ふらりと巴里《パリ》に帰って来た。帰ってみれば、今まで自分が追い掛けていたはずのルパンがこの大事件を起しているのであった。ガニマール氏はまたしても不倶戴天《ふぐたいてん》の敵アルセーヌ・ルパンのためにうまうまと一枚喰わされたのである。ガニマール氏をしてルパンが東洋方面に逃走したらしく思わせたのはルパンの計略であって、これはこの名探偵を巴里《パリ》の外へ追出しておいて、その留守にうまうまと錦の壁布事件の大事件をしたのである。
ガニマール刑事は無念の歯噛《はがみ》を食いしばって口惜《くや》しがった。彼は直ちに捜索課長から二週間の猶予をもらって、旅装もとかず、その足を以てスパルミエント夫人を訪ね、必ず夫君スパルミエント氏のためにに讐《あだ》を報い心を安んぜしめるであろうと誓った。
しかし、よし敵を討ってもらったところで、死んだ夫が生き返るわけはないエジス夫人は一度受けた胸の痛みが癒えるはずはなかった。泣くなく野辺《のべ》の送りをすませた夜、三人の探偵は引き取らせ、一人の老僕と老婢だけを使うことにした。探偵達を見ると、つい亡き夫の事が思い出されて悲しみをそそったからである。こうして一間に閉じ籠ったきり、何事も手がつかなかった。総《すべ》ての事はガニマール氏の言うがままにしておいた。
ガニマール刑事の方は階下に立籠って、即刻調査にかかった。彼の緻密な頭脳は、かの大きな疑問の波を押し分け押し分け進んだ。詳細な研究は次第々々に進められた。近隣で問合せたり、家の組立を実査したり、二十度も三十度も電鈴を鳴らしてみたり、この名探偵はあらゆる能力をしぼった。
初めの計画の二週間は過ぎたが、事件は依然として五里霧中の裡《うち》にあった。刑[#「刑」は底本では「刊」]事は更に延期を願出た。捜索課長ジュズイ氏が心配してガニマール刑事の研究の実況を見に来た時には、刑事は陳列室の前に梯子をかけ、その上に上って一心に考えていた。
しかし刑事の脳中には本件の解決に関して少しの光明も見出さなかったのである。
でもその翌日ジュズイ氏が再びそこを訪れた時には、ガニマール刑事は新聞紙を前にひろげて、身も魂も打込むように思案していた。初めはジュズイ氏の問[#「問」は底本では「間」]にも答えようとはしなかったが、強いて尋ねていると、刑事は重い口を開いて、
『わかりません。全く解りません。が、ここにほんのちょっと不審に思うことがあるんです。でも、それもどうも当《あて》にはなりませんが‥‥』
『すると、君はどうするつもり?』
『課長、どうか、もう少し待って下さい。どうぞ本件は万事私にお任せ下さい。そして、そのうち電話をかけましたら、大至急で自動車でお出でを願います‥‥その時こそ本件の秘密の鍵を握った時ですから!』
ジュズイ氏は満足して帰った。と、それから三日経った朝、課長の許へ、一通の電報が届いた。差出人はガニマール刑事で、文句は簡短《かんたん》に、
『リイユへ行く』とあるのみであった。
『ふふむ?』ジュズイ氏は考えた。
『何だって、リイユなどへ行くのだろう?』
その日も、次の日も刑事からは何の便りもなかった。
しかしジュズイ氏は落胆しなかった。彼はガニマール刑事を充分に信頼していた。右腕と頼む刑事主任の人物をよく知っていた。ガニマールの一挙手一投足には必ず確信ある根拠があることを疑わなかった。
二日目の夜、突[#「突」は底本では「笑」]然ジュズイ氏に電話がかかって来た。
『課長? 課長ですか!』
『ああ、君は、ガニマール君?』
『はい、そうです。』
『して、その後の模様は?』
捜索課長ジュズイ氏も、ガニマール刑事も共に用心深く、相手がそれに相違ないことを知るまでは軽卒な口は利かなかった。こうして双方相求める人に相違ないことを知ると、ようやく安心した刑事は言葉忙しく言い出した。
『至急、十人ばかり人を出して下さい。』
『よし!』
『あなたもどうか御一緒に!』
『承知した。どこだ?』
『例の家の、階下の部屋に。しかしお出で下さる時には庭の門まで迎えに出ます。』
『わかった! 自動車だろうね? もちろん。』
『はい、十歩ばかり手前で自動車を留めて、口笛を吹いていただけば、すぐ門を開けます‥‥そっと吹いて下さい‥‥家の者に聞えないように。』
五
捜索課長は主任刑事の請求通り、直ちに出張の命令を下した。
ガニマール刑事は真夜中少し過ぎた頃、家の燈がすっかり消されて、真暗になったのを見計って階下を出てジュズイ氏を待っていた。
口笛は静かに鳴った。門は音もなく開かれた。会見はひそかにかつ敏捷《びんしょう》に行われた。巡査等はすべて主任刑事の命令の下に行動した。捜索課長と主任刑事の二人は足音を忍ばせて庭を通って、家の中に入った。
『一体どうしたんだ?』
『‥‥‥‥』
『何だい、この態《ざま》は? まるで泥棒のようなじゃないか。』
『‥‥‥‥』
捜索課長は、色々ガニマールに囁いたが、ガニマールは返事もしなかった。課長は彼の挙動の尋常でないのを見て取った。課長は彼のこんなに昂奮している様をかつて見たことがなかった。
『どうした。変った事があるのかい?』
課長も引入れられて緊張せざるを得なかった。
『はい、今度こそは、課長! しかし実に自分にも信ずることが出来ないような事件です。[#「。」は底本では欠落]でも、断じて誤っていません。全く真相を掴みました。事実とは思われない事実です。全く、嘘でも誤解でもありません。真実です。』
主任刑事は額の汗[#「汗」は底本では「汚」]を押し拭いながら、充血した眼を上げてこう云った。彼は冷水をグッと飲みほして気を落ちつけると更に語を続けた。
『これまで私は何度も何度も失敗《しくじ》りましたが、今度こそは‥‥』
『そんなことはどうでもいい。事件の方を、結局どうした?』
『いや、細かく云わねばお解りになりませんよ。私の実験したいろいろの事情を申上げねば‥‥合理的な順序であることがお解りになりませ[#「せ」は底本では欠落]んよ。』
ガニマールの意外な意気込に、課長も声を落して聞き入った。
『これまで何度もの失敗に、私はさんざんな
前へ
次へ
全4ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
ルブラン モーリス の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング