あとは今週中に請取ることになっています。』
『驚いたなア。』
『私のいない時に勘定をしていますが、折よく帰り道で、私の知っている保険会社の社員に会ったのですっかり話を聞きました。』
しばし唖然としていた課長は、思わず太息を吐いて、
『実に恐ろしい奴だなア。』
『全くです。ずいぶん巧妙に出来ているではありませんか。四五週間も、誰一人スパルミエント大佐を怪しむものは無いのですから。いかに巧妙な奸策《かんさく》であるかがわかります。驚くの外ありません。世間の疑問、憤怒、探索をルパン一人に背負わせているんです。そして一方あの伝説の中から出て来たようなエジス夫人が泣きの涙でうまく勤めているのですから保険会社などは、てんで損害などは眼中になく、少しでも夫人を慰め得れば満足だとするくらいですから‥‥彼奴の計画は首尾よく運んだものです。』
二人に互に顔を見合せて呆れ返った。
やがて課長は口を開いた。
『その夫人は一体何者だ。』
『ソーニャ・クリシュノフ。』
『うむ!』
『あなたが去年逮捕したことのある‥‥』
『露西亜《ロシア》女か! 王冠事件の時、ルパンが逃がしてやった。』
『そうです。』
『うむ、僕も世間並みにルパンの計略にかかってすっかりあの女に気が付かなかったよ。なるほど、こう話が決ってみると思い出すことがある。ソーニャのの奴確かに英国女に化けているのだ。あいつと来た日にゃ、ルパンの事なら、死ねと云えば死ぬくらいに惚れ込んでいるんだからなア。いや、よくやってくれた。感謝する! さすがはガニマール君だ。』課長は固く主任刑事の手を握って賞讃した。
『お褒めに預って恐縮します。まだ拾い物があるんですよ。』
『何だ?』
『例のルパンの乳母‥‥』
『ビクトアル?』
『はい、その婆さんも今スパルミエント夫人のソーニャ・クリシュノフについてこの家に来ていますよ。』
『そのまま?』
『いや、料理人に化けて‥‥』
『そいつは有難い!』
『まだありますよ、課長!』
ジ[#「ジ」は底本では「シ」]ュズイ氏はいきなり刑事の腕を両手で握って躍り上った。ガニマール刑事の手も震えていた。
『まだある? 何が?』
『何がって、今頃何のためにあなたに御足労を掛けたと思われます。ソーニャやビクトアルの如き小魚なら、何もあなたのお手を煩わしはしません。あんな者ならいつだって縄をかけられます。』
『すると?』
両人の眼はらんらんと光った。
『わかりませんか?』
『奴が?』
『いますよ。』
『いる?』
『いるのです。』
『隠れて?』
『どうして、ずうずうしく召使に化けて‥‥』
さすがの課長も、ルパンの飽くまでも大胆なのに茫然として自失せんばかりであった。
ガニマール氏はほくそ笑みつつ、
『ソーニャがもしヘマをやるかと心配して、第四の役を背負って戻って来たものです。保険金を請取らぬ中《うち》しっぽを見せては折角の苦心も水の泡なので、自分がいて裁配《さいはい》を振らねば心許なかったのでしょう。三週間前から、私の行動を蔭にいて窺っているのです。』
『どうして見極めをつけた?』
『もちろん顔では分りません。彼奴は独特の変装術を心得ていますから、とても見分は付きません。私もまさか召使に化けて入っていようとは思いませんでした。ところが今晩、ソーニャと乳母のビクトアルが、階段の蔭の真暗な所で立話をしているのを盗み聞きますと、乳母が召使を呼ぶに『坊ちゃん坊ちゃん』と言ってるじゃありませんか。その坊ちゃんでようやくハッと気付いたのです。ビクトアルは今でも奴の事を子供のように思って、いつでもこう呼んでいるのです。私は決心しました。』
何遍追跡しても、かつて手を触れる事の出来なかった強敵が、今現にこの家に潜んでいることを思うと、捜索課長もあわてだした。
『今度こそ逃がさぬぞ! 逃げようたって逃がすものか!』
『そうですとも、女共も一網《いちもう》に!』
『どこにいる?』
『ソーニャとビクトアルは三階に!』
『ルパンは?』
『四階に!』
ジュズイ氏はふと不安を感じた。
『やア、壁布の紛失した時も、その部室《へや》の窓から落としたじゃないか。』
『そうです。』
『すると、今度もそこから逃げ出すかもしれないよ。その窓はジュフレノアイ街に向いていたから。』
『ええ、だから、その用意はしてあります。お連れになった。部下を四人、すぐその窓下に伏せておきました。窓を逃出そうとする者があったら、容赦なく射《う》ってしまえ。だが、最初は空砲、二度目には実弾を射てと命じてあります。』
『よし、万事抜かりはないな。』
『はい。』
『じゃ夜明に‥‥』
『いや、彼奴に限って油断はなりませんよ。規則だの形式だのと、つまらぬ事にこだわって、そのうちに感付かれでもすると、また馬鹿を見ねばなりません。奴の手品は大変
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