ンは書記の身体《からだ》を調べたが呟く様に『死んでおる!』と大息した。
『エッ、ほんとうですか?……ほんとうですか?……』
 とジルベールは声を震わせた。
『正《まさ》しく死んでおる』
 ジルベールはオロオロ声になって、
『ボーシュレーです……咽喉《のど》を一突にしたんです……』
 怒心頭に発し、顔色も真蒼《まっさお》になったルパンはいきなりジルベールの肩を掴んで、
『ボーシュレーの仕業……して貴様も……こ、この間抜ッ! 貴様は傍《そば》に居て、なななぜ止めないんだ。……血! 血! 見ろ、この血を! 俺は血は大嫌いだ、人を殺さんのが俺の主義だって事を知っとるじゃないか。ああ、飛んでもない事をしやあがった。人を殺せば己《おの》れも殺される。……これほどの大事《だいじ》が解らんか、断頭台が目に入らんか……馬鹿ッ!』
 傍《そば》の死骸を見ると彼の怒りはますます激しくなって、手荒くボーシュレーを小突き廻しながら、
『なぜだ?……ボーシュレー、なぜ人殺なんぞしたんだ?』
『あいつが戸棚の鍵を取ろうと書記の懐中《ポケット》へ手を突き込もうとするといつのまにか縛ってあった腕の縄を解いていたんです。……だから泡食って突いたんです』
『だが先刻《さっき》の短銃《ピストル》の音は?』
『ありゃ、レオナールです……短銃《ピストル》を握っていたんで……死ぬ前に一発撃ったんです……』
『戸棚の鍵は?』
『ボーシュレーが奪《と》りました……』
『戸棚を開けたか』
『へえ』
『発見《みつ》かったか?』
『へえ』
『で、貴様がボーシュレー[#「ボーシュレー」は底本では「ボツシユレー」]からそいつを取り返したんだな? ……匣か? いやそれにしちゃあ小さすぎる……何んだ品物ァ……云えッ……』
 黙ってしまった様子にジルベールが白状しないと早くも見て取ったルパンはジロリと物凄い眼を向けて、
『フン。話さなきあよいが、おれはルパンだぞ。きっと白状させてやるから……だが今は愚図々々しちゃあおられねぇぞ。……まあ手を借せ……ボーシュレーを端艇《ボート》まで運んでやらにゃあならんから……』
 彼は再び食堂に戻った。そしてジルベールがボーシュレーの身体に手をかけようとした時、ルパンが、
『シッ! 聞けッ!』
 と云って二人は不安らしい眼を見交した。事務室の方から声が洩れて来る……低い低い声で、よほど遠方から来る様だ……がしかしそこには誰も居ないはずだ。書記の血に染《にじ》んだ死骸より外《ほか》には何人《なんぴと》も居ようはずが無い。
 怪しの声は再び聞えて来た。ある時は鋭く、ある時は息の詰る様に、唸る様に、吠える様に、悲しげに、恐ろしげに、意味も解らぬ片言がどこからともなく聞えて来る。
 さすが豪胆のルパンも全身冷水を浴びた様に慄《ぞっ》とした。この物凄い、無気味な墓場の底から出て来る悲鳴は、果して何んだろうか?
 彼は書記の死骸を覗き込んだ。声はハタと杜絶《とだ》えたがまた聞えて来る。
『もっと灯火《あかり》をこちへ』とジルベールに云った。
 彼は云いしれぬ悪寒がする様なのを止《と》める事が出来なかった。が怪しい声は確かにここから出て来ると思った。ジルベールが点けた灯火《あかり》でよく見ると、声は確かに死骸から出るのだが、その死骸は氷の様に冷たく、硬直して、血に染った唇は微動だにしていない。
『首《か》、首領《かしら》、どうしたんでしょう』とジルベールは歯の根も合わず慄《ふる》えておる。
 ルパンは突然プッと噴飯《ふきだ》した。そして死骸を攫《つか》んでグイと傍《そば》へ押し転がした。
『そうだ!』と云って何やら光った黒いものを引っぱった。『……さうだ!やっと解った……ハハハハこれだこれだ。すぐに気が付きそうなものだったが、馬鹿におどろかされたもんだて』
 見れば死骸の下に電話の受話器がある。そしてその紐《コード》は壁に取付けられて電話機につながっていた。ルパンは受話器を耳に押し当てた。とまもなく声が聞こえて来た。人々の呼んだり叫んだりする声――大勢の人々があわてふためいて一時《いちじ》に色々な事をがやがや怒鳴っているのであった。
『……オイ、そこに居《お》るか?……返事がないぞ……こりゃ大変だ……殺《や》られたかもしれんぞ……オイそこに居るか?……どうしたどうした?……オイ確乎《しっかり》せい……警察からも出かけたぞ……警官も……憲兵も出かけたぞ……』
『エイ、勝手にしろ』とルパンは受話器を投《ほう》り出した。
 初めルパン等が懸命に品物の運搬をしておる間に、レオナールは余り堅く縛してなかったのを幸い、その縄を解いて電話機の傍《そば》まで転がって行って、受話器を口に啣《くわ》えて床の上に下ろし、それからアンジアンの電話局へ救助を叫んだのだ。
 ルパンが最前|艇《ふね》の出るのを見送って内へ入る時驚かされた叫声《さけびごえ》『助けてくれ……助けてくれ……殺されそうだ……』と云ったのは書記が必死になって交換局へ救いを叫んだ時だったのだ。今がやがや言っておるのは交換局からの返事だ。警官隊は時を移さず駈け付けて来た。ルパンは四五分とも経たぬ今の先、庭園の方に当って聞こえた人声を思い出した。
『警官だ……さあ出来るだけ逃れるんだ』と云って食堂を駈け出そうとする。
 しかしこの時正気付いたボーシュレーは苦しい声を絞って、
『首領《かしら》。見捨てて行くんですかい、こんなになっておる私《わっし》を……』
 身に迫る危険を捨ててルパンは立ち止った。そしてジルベールに手伝わしつつ負傷者を抱き上げた時、すでに戸外に人の迫った気配。
『失敗《しま》った!』と叫んだ。
 この時家の裏手の入口の戸を割れよとばかりに乱打する。彼等は廊下の戸口へ走った。と見る警官隊は早くも家を包囲して無二無三に突き入ろうとしている。彼はこの隙にジルベールを伴《つ》れて湖水の岸まで逃げようかと思った。しかし逃げたとしても背面《うしろ》からあびせられる敵の砲火にどうして湖水を渡れよう?とそう思うと、彼はつと戸を閉じて閂《かんぬき》を下した。
『もう手が廻ったッ……やられたッ……』とジルベールは狼狽《あわ》てた。
『黙れッ!』とルパンが云った。
 その時、ルパンは石像の様に突立っていた。その顔色は、悠然として全く平静に、その態度は泰然としてあらゆる事象の裡《うち》に形勢の機微を洞察せんとするもののごとく熟慮していた。これぞ彼のいわゆる「無念無想の妙諦」に入《い》る時であって、彼の真骨頭《しんこっとう》を発揮する瞬間であるのだ。身に迫る危険、擾乱《じょうらん》の渦《うずまき》の中に投ぜられた時、彼は静かに『一[#「『一」は底本では「一」]……二……三……四……五……六……』と数を読み初める。かくする事一二分、心臓の鼓動は鎮まって、無念無想の妙境に達する。この瞬間、彼が魔のごとき洞察力、彼が満身の勢力、彼が徹底せる熟慮と深瀾《しんらん》のごとき遠謀とが渾然として湧出して来る。しかしてその澄み切った心鏡に映るあらゆる形勢と現状とに対して、彼は論理的に考察し、確実に予見する事が出来るのであった。
 三四十秒後悠然と落ち着き払った彼は、二人の部下を伴うて、向いの庭に面した窓の框《かまち》をそっと押して戸外の様子を覗《うかが》った。外には人々が右往左往しておる物々しさ、逃走なぞ到底出来そうにもない。そこで彼は喉《のど》につまる様な大声を上げて、
『こいつだ! ……手伝ってくれッ! 曲者を捕《とら》えたぞッ!……ここだここだッ!』
 と怒鳴ると共にピストルを出して庭の木の間へ二発撃った。彼は倒れて居るボーシュレーの傍《そば》へ走って、その傷口から出る血を、自分の手や顔に塗《なす》り付け、ジルベールに手がかかるや否やいきなり物をも云わず投げ倒した。
『な、なにをするんです、首領《かしら》。酷いじゃありませんか!』
『何んでもいいから俺に任せろ』とルパンは命令口調で云った。『きっと好い様にしてやる。……お前達二人は俺が引き受けた……しかし、それにゃあ俺が自由でなけりゃならんのだ』
 人々は声する方に集まって、開け放した窓の下で騒いでおる。
『ここだッ!』と彼は再び叫んだ『ここだァ! 捕《とら》えた、早く手をかしてくれ……』
 と云うと静かに低い声で、
『気を落ち付けろ……何か云う事はないか? ……打ち合しておく事はないか?……気を落ち付けて巧くやるんだ……』
 余りに狼狽したジルベールにはルパンの謀計を了解する由《よし》もなく、徒《いたずら》に亢奮して悶《もが》き騒いだ。ボーシュレーは別に何等の抵抗もせず自暴自棄の体で《てい》で、ジルベールの態度を嗤《あざわ》らって、
『ヤイヤイ。任して置きねえて事よ。愚物《どじ》……首領《かしら》をうまく落さにゃならねえんじゃねえか……よッ、こいつが第一《でえいち》だァな……』
 ふとこの時ルパンは先刻《さっき》ジルベールがボーシュレーから奪って懐中《ポケット》へねじ込んだもののある事を思い出した。そしていきなりジルベールの懐中《ポケット》へ手を突込んだ。
『アッ。不可《いけ》ねえ……こればっかりは不可《いけ》ません』と彼は身を藻掻いた。
 ルパンは再び彼を床上に叩き付けた。この時二人の警官が窓から飛び込んで来たのを見て、ジルベールも観念したか、そっとその品をルパンの手に渡した。ルパンは咄嗟の場合品物を検《あらた》めもせずそのまま懐中《ポケット》へ捩《ね》じ込んだ。ジルベールは※[#「口+耳」、第3水準1−14−94]く様に、
『首領《かしら》、この品は……いずれ話します……首領《かしら》なら確かに……』
 と云いも終らぬ内に二人の警官及その他の人々は四方からドッと踏み込んで来た。
 ジルベールがたちまち高手籠手に縛《いまし》められたのでルパンも太息《といき》して起ち上った。
『いや、御手数です。大した事はなかったんですが……かなり骨を折せやあがった……私は一人を遣《や》っ付《つ》けておいてこいつを』
『だがこの家の書記は見えませんが?……殺されましたか……』と警部が慌《あわただ》しく訊ねた。
『知りません。私は人殺しと聞いてあなた方と一緒にアンジアンから来たのですがあなた方は家の左手《ゆんで》に御廻りなさったから、私は右手《めて》に廻ったのです。来てみると窓が一ツ開いておる。で私は早速その窓から中へ入ろうと思うと、二人の強盗が窓から飛び出そうとしていましたので、手早く一発撃ったのです、こいつに――』
 と云ってボーシュレーを指《ゆびさ》した。『それからこっちの奴に組付いたのです』
 この際誰れがこれを疑ぐろう? 彼は血に塗《まみ》れておる。彼は書記殺しの兇賊二名を捕《とら》えたのだ。十数名の人々は彼が兇賊と猛烈な挌闘を演じておる様を目撃した。
 しかのみならず、多数の人が泡を喰《くら》って大騒ぎに騒ぎ立てておる際、彼の言葉の辻褄の合わぬ事などに気の付く場合でなかった。
 その内に事務室で書記の死骸が発見された。こうなるとさすがは警察官だけに事態重大と見て仮予審を開く事を忘れなかった。署長は関係者以外のものを全部|庭内《ていない》に去らしめ門の内外には巡査を配置して絶対に出入《でいり》を厳禁し、直ちに兇行|現場《げんじょう》及証拠品の調査を開始した。
 ボーシュレーは素直に姓名を自白したが、ジルベールは頑として応ぜず、裁判長の前でなければ名前を云わないと頑張った。しかし書記殺しの下手人《げしゅにん》に至ると両人互に自分ではないと抗争し、果しなく言い募る。こうして警官の注意を他へ外《そ》らさぬ様にしてその間に首領を落そうと云う腹であったのだ。そんな深い謀《たくらみ》とは知る由もなく署長は二人の争いには困惑して結局、両人を捕縛した人に証言を求めようと思って四辺《あたり》を見廻したが紳士の姿はもうそこには見えなかった。署長は部下の警官を呼んで、その男を捜させた。警官は大声で呼んだが、返事が無い。
 この時一人の兵士があわただしく駈け付けて来て、その紳士はたった今|端艇《ボート》に乗り込んで
前へ 次へ
全14ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
ルブラン モーリス の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング