っかい》の孤島《ことう》に、最初の夜を、ぐっすりねこんだ。
四つのきまり
島でむかえる最初の朝、五月二十一日となった。
起きると、からだは砂だらけ。夜具をかたづけるかわりに、せなかやおなかの、砂をはらい落すのである。顔を洗うかわりに、海に飛びこんで、からだを洗った。もちろん、手拭《てぬぐい》は使わない。
一同は、西から少し北の方、日本をはるかにのぞみ、そして、神様のおまもりによって、ぶじに十六人が、無人島の朝をむかえたことの、お礼を申しあげた。
それから、今日の当番をきめた。井戸ほり、蒸溜水《じょうりゅうすい》つくり、まきわり、炊事、荷物のせいとん、などである。
井戸ほり組は、ここぞと思うところを、あさくほって、石油|缶《かん》のそこにあなをあけたものをうずめ、砂をもりあげて、くずれないようにかためた。井戸の水は、石油缶のそこのあなからわきあがって、缶にたまった。その水は、考えたとおり、すこししおからいが、どうにか飲める。まあよかった。これでしのぎはつく。この水に、蒸溜水を半分まぜて、飲むことにした。
朝飯は、正覚坊の焼肉と、潮煮。飯がすんでから、私は、一同にいった。
「島生活は、きょうからはじまるのだ。はじめがいちばんたいせつだから、しっかり約束しておきたい。
一つ、島で手にはいるもので、くらして行く。
二つ、できない相談をいわないこと。
三つ、規律正しい生活をすること。
四つ、愉快な生活を心がけること。
さしあたって、この四つを、かたくまもろう」
一同は、こころよくうなずいた。榊原《さかきばら》運転士が、一同を代表して、
「みんなは、きっと、この四つの約束をまもります」
といった。それから運転士が一同にむかって、ことばをつづけた。かれは食糧がかりであった。
「三度の食事のことだが、米の飯は、常食にできない。みんなも知ってのとおり、米は、二俵しかない。できるだけ長く、食いのばすことにしなければならないから、一日に、おわんにぬれ米二はいを十六人でたべることにしたい。こうすると、来年の二月、三月ごろまでは、どうやら、米があるみこみがたつ。おかゆにもできないから、重湯をたくさんこしらえて、一日に三度飲むことにして、あとは、かめや魚で、腹をこしらえることにしたい。どうだろう。それとも、ほかに、いいちえがあるか。あったら、えんりょなくいってくれ」
まっ先に水夫長がいった。
「運転士に、おまかせします」
一同は、うなずいた。
「それでは、漁業長、魚とかめをたのみます」
運転士がいうと、小笠原《おがさわら》は、漁業長の顔を見て、にっこり笑って、例のくせで腕をたたいた。
「この老人が、みんなのおなかは、すかせないよ」
たのもしいことばだ。
荷物のせいとん当番は、荷物の整理、衣服、毛布、索《つな》、帆布《ほぬの》などを日にほし、筏《いかだ》にした円材や板をかたづけたり、伝馬船《てんません》をよく洗って、浜にひきあげるなど、それぞれに、みんな一日中、いそがしく働いた。
心の土台
きれいな砂の上に、みんなは、よく眠っていた。五月二十二日、無人島生活二日めの、朝早くであった。
私は、しずかに起きあがった。そして、運転士と漁業長と、水夫長の三人を、そっと起した。四人は足音をしのばせて、天幕《テント》の外に出た。
あかつきの空には、星がきらめき、島も海も、まだ暗い。私は、すぐに海にはいって、海水をあびて、身をきよめた。つれだった三人も、無言で、私のするとおりに海水をあびた。
水浴がすむと、四人は深呼吸をして、西からすこし北の日本の方を向いて、神様をおがんだ。それから、島の中央に行って、四人は、草の上にあぐらをかいてすわった。
私は、じぶんの決心をうちあけていった。
「いままでに、無人島に流れついた船の人たちに、いろいろ不幸なことが起って、そのまま島の鬼となって、死んで行ったりしたのは、たいがい、じぶんはもう、生まれ故郷には帰れない、と絶望してしまったのが、原因であった。私は、このことを心配している。いまこの島にいる人たちは、それこそ、一つぶよりの、ほんとうの海の勇士であるけれども、ひょっとして、一人でも、気がよわくなってはこまる。一人一人が、ばらばらの気もちではいけない。きょうからは、げんかくな規律のもとに、十六人が、一つのかたまりとなって、いつでも強い心で、しかも愉快に、ほんとうに男らしく、毎日毎日をはずかしくなく、くらしていかなければならない。そして、りっぱな塾か、道場にいるような気もちで、生活しなければならない。この島にいるあいだも、私は、青年たちを、しっかりとみちびいていきたいと思う。君たち三人はどう思っているかききたいので、こんなに早く起したのだ」
運転士は、いった。
「よくわかりました。じつは私も、そう思っていたのです。これから私は、塾の監督になったつもりで、しっかりやります。島でかめや魚をたべて、ただ生きていたというだけでは、アザラシと、たいしたちがいはありません。島にいるあいだ、おたがいに、日本人として、りっぱに生きて、他日お国のためになるように、うんと勉強しましょう」
漁業長は、
「私も、船長とおなじことを思っていました。私はこれまでに、三度もえらいめにあって、九死に一生をえています。大しけで、帆柱が折れて漂流したり、乗っていた船が衝突して、沈没したり、千島では、船が、暗礁《あんしょう》に乗りあげたりしました。そのたびに、ひどいくろうをしましたが、また、いろいろ教えられて、いい学問をしてきました。これから先、何年ここにいるか知れませんが、わかい人たちのためになるよう、一生けんめいにやりましょう」
いちばんおしまいに水夫長は、ていねいに、一つおじぎをしてから、いった。
「私は、学問の方は、なにも知りません。しかし、いくどか、命がけのあぶないめにあって、それを、どうやらぶじに通りぬけてきました。りくつはわかりませんが、じっさいのことなら、たいがいのことはやりぬきます。生きていれば、いつかきっと、この無人島から助けられるのだと、わかい人たちが気を落さないように、どんなつらい、苦しいことがあっても、将来を楽しみに、毎日気もちよくくらすように、私が先にたって、うでとからだのつづくかぎり、やるつもりです」
かれのいうことは、真実である。かれのふだんのおこないをよく知っている私は、まったく心を動かされた。
私は、いまさらながら、三人のたのもしい強いことばに、心から感謝した。
こうして、無人島生活の心の土台がきずかれて、進むべき道がきまったのだ。四人が立ちあがった時には、東の水平線が明かるくなって、海鳥が鳴きかわしつつ、島の上を飛びはじめていた。
私は、このときから、どんなことがあっても、おこらないこと、そして、しかったり、こごとをいったりしないことにきめた。みんなが、いつでも気もちよくしているためには、こごとは、じゃまになると思ったからである。
火をつくる
この日の午後から、蒸溜水《じょうりゅうすい》の製造をやめた。それは、蒸溜水製造には、びっくりするほどたくさんにたきぎがいるからである。前にもいったように、たきぎは、二本の流木があるだけで、それをたいせつに使わなければならないからだ。
もう蒸溜水には、心残りのないように、かまどを、きれいさっぱり、くずしてしまった。これで一同は、しおけのある井戸水ばかりを飲むことになった。
雨の降ったとき、雨水をためて飲むことは、もちろん工夫した。天幕《テント》の下の方を折りまげて、屋根に降った雨水が、石油の空缶《あきかん》に、流れこむようにした。そして、それから後、たびたび雨が降って、雨水をためることができた。
雨水をためる工夫をする一方、天幕のなかへ、雨水が流れこまないように、天幕のなかいちめんに、砂をもりあげたり、まわりに水を流す溝をほったりして、すまいの天幕も、倉庫の天幕も、一日かかって、雨水よけの工事ができた。
たきぎは、一日三度の炊事に、なくてはならないものだが、よほど節約しないと、なくなってしまう。
そこで、たべあとの魚の骨や、かめの甲をあつめて、たきぎのかわりにもやした。大きな正覚坊の甲、一頭分は、一日の炊事に、じゅうぶんまにあった。よくかわかしてわると、油がしみていて、たいそうよくもえた。
火をつくるマッチは、ほんの少ししかない。五年も十年も、これを使わなければならないから、まず使わずにしまっておくことにした。そして、天気のよい日は、双眼鏡のレンズで、太陽の光線をあつめて、火種をつくった。しかしこれは、くもりの日や、夜はできないから、そんな時には、なにかべつな方法を考えなければならない。
そこで、流木で、長さ三十センチほどの、へらのようなものをつくり、その一方をとがらせた。そのとがったへらで、一メートルぐらいの長さの太い松材の中央に、十五、六センチぐらいの、くぼんだところをつくって、そこをへらで、力をいれていきおいよく、気ながに、ごしごしこすると、こまかい木の粉がでて、松材はへこんで、こげくさくなる。もっとこすると、すこし煙が出る。そのとき、いっそう強くこすってから、へらの先を、こすれて出た木の粉につきつけると、火がつく。その火を、用意しておいたかれ草の葉、または、索《つな》を毛のようにほぐしたものなどにうつして、いっそう大きな火種をつくった。
「この火種が、いつでも手ぢかにあれば、どんなに、べんりだろう」
こう考えた漁業長と小笠原《おがさわら》老人は、いいものをこしらえた。それは灯明《とうみょう》だ。
缶づめの空缶の上の方を、きれいに取って、砂を半分ほど入れ、正覚坊の油をつぎこむと、油は砂にしみこみ、よぶんの油は、砂の上に三センチほどたまる。その砂に、帆布をほぐした糸で作った、灯心をさしこみ、火をつけると、りっぱな灯明になった。灯明の火が、風に消されないように缶づめの入れてあった木箱で、わくをつくって、帆布の幕をさげると、行灯《あんどん》ができた。
行灯の火を、昼も夜も消えないようにまもって、万年灯とした。そして万年灯は、ひっくりかえしたり、けとばしたりしないように、天幕のなかに、太い丸太を地面にななめにいけこんで、その先を、地面から一メートルぐらいの高さにして、ここへつるしておいた。炊事のときは、これから火種がとれるし、夜は、天幕のなかを明かるくして、みんなを喜ばせ、ほんとうに役にたった。
つぎに、毎日三度のたべものは、はじめは、島にいた四頭の正覚坊であった。それは、三日でたべてしまった。
それからは、魚をつった。つり針は、石油缶のとっ手になっている、太い針金をとって、先をとがらせて、まげたもの、また、缶づめの木箱の釘《くぎ》をぬいて、うまくまげてつくった。
魚つりなら、十六人のなかには、名人がいくらもいる。ヒラガツオ、シイラ、カメアジをはじめいろいろの魚が、いくらでもつれた。
魚の料理は、さしみが、いちばん手数がかからなくてよい。焼魚、潮煮、かめの油でいためたのもたべたが、これには、たいせつなたきぎを、使わなければならないから、たびたびはできない。
これは、すこしあとの話になるが、魚をつりはじめてから、米をたべることは、いっそう節約をした。重湯は、一日おきにし、また二日おきにした。しまいには、魚ばかりたべてくらした。
米を節約したのは、わけがある。それは、故国日本の人たちが、
――龍睡丸《りゅうすいまる》は、いつまでたっても帰ってこない。どうしたのだろう。漂流しているのか、沈没してしまったのか、行方不明になってしまった――
こういううわさをして――それが東京の新聞にでるのは、秋の末か、冬になってからであろう。
それから、捜索船を出してくれると考えると、来年の五、六月頃でないと、捜索船は、この島の付近にはやってこない。しかもこれは、私たちじぶんかっての考えで、故国の人たちは、われわれが無人島でくらしているとは、思わないかも知れない。
龍睡丸は沈
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