。
「もう見えそうなものだ」
などと、めめしいことはだれもいわない。きっと島が見つかるような顔をして、みんなへいきでいる。なんというたのもしい人たちだろう。私は、みんなをなぐさめるつもりでいった。
「おそくなったら、今夜は見つけた島へとまって、明日《あした》帰ろう」
すると漁業長が、
「まだ、島は見えないのですから、夜通し漕がなければならないかも知れません」
水夫の一人が、
「明日の朝までには、島は見えるでしょう」
この男たちは、今夜一晩中、西へ漕ぐつもりらしい。まったくの海の男だ。しかし、この大洋のまんなかで、日がくれてしまったらたいへんだ。新しい島を見つけるどころか、われらの島へ帰ることもできなくなるだろう。
だが、日がくれれば星が出る。北極星《ほっきょくせい》は、真北にあるのだから、北極星を見て、方向をたしかめることができるけれども。
私は、立ちあがって、ぐるりと見まわした。やはり、まるい水平線ばかりで、島らしいものの、かげもない。
なおも漕ぎつづけて、とうとう午後三時頃になった。
「見えましたっ」
とてつもない大声で、会員の川口がどなった。
なるほど、指さす水平線に、ちょんぼり、針の先でついたほどの黒点が見える。まさしく島にちがいない。しめた。これさえつかまえたら、島はもうわれらのものだ。川口はいちばん背が高いので、だれよりも早く、島を発見することができたのだ。
島に近よると、大きさは、われわれの住んでいる島の、二倍はあろうか。ひくい島で、草やつる草はしげっているが、木は一本もない。海鳥がたくさんいる。
島にあがってみておどろいた。たいへんな流木だ。島のまわりいちめんにうちあがっていて、その間に正覚坊が、ごろごろしているではないか。
「これはいい島だ」
「宝の島ですよ」
「よし、宝島と名をつけよう」
私は、宝島と名をつけた。宝島は、できてから、まだ新しいのだろう。表面に砂や土が少ない。
さっそく、井戸をほりはじめたが、かたい珊瑚質《さんごしつ》の地面で、飲料水の出る見こみはない。そのうえ、島を横切って、川のように海水が流れ通っているのだ。井戸ほりをやめて、流木とかめとを伝馬船につみこんだ。
漁業長は、魚がたくさんいるといって喜んだ。たちまち大きな魚を六、七ひきつりあげて、流木のたき火で焼いた。夕食の支度だ。
流木は、よほど古い時代の、日本船のこわれた杉材や、西洋帆船の太い帆柱をはじめ、たくさんの船材で、これからさき、二ヵ年ぐらいのたきものはある。まるで、たきぎと海がめの、倉庫のような島だ。
流木をしらべていると、その中に、うすい鋼板をはりつけた、船底板があった。これはいいものを見つけた。すぐ、伝馬船につませた。
日がしずまないうちにと、大いそぎで島を一とおりしらべてから、魚の焼いたので、夕食をすませた。時間はまだ日ぐれまでには、一時間ぐらいはあった。すぐに出発すれば、夜中までには、われらの島へ帰れる見こみはある。私は立ちあがった。
「さあ、いそいで帰って、みんなを喜ばせよう」
「それ。出船だ。つれ潮だぞ」
つれ潮というのは、潮が船の進む方向に流れることで、つれ潮に乗ると、船は潮に送られて、速力が出るのだ。
「がんばって漕ごう」
大きな正覚坊六頭と、たきぎを船いっぱいに積んで船足の重い伝馬船は、東へむかって、帰りの航海についた。くたびれてはいるが、宝島の発見で、元気が出て、櫓拍子も勇ましく漕ぎ進んだ。
夕ぐれとなって、太陽が水平線にしずむと、西の空にうかぶ雲は、レモン色の美しさ、それが煉瓦色《れんがいろ》になり、やがて紅色に、だんだんと鉄色の夕やみになってしまった。西の空も水平線も黒くなると、星が青く赤く、鏡の海にかげをうつしはじめた。水平線に近く、ひくいところに光る北極星をめあてに東に方角をきめて、漕ぎつづけた。この星をたよりに、われらの小さな島を、夜の海に、さがさなくてはならないのだ。
そのころ、島に居残っていた人たちは、心配しはじめた。日がくれても、探検船は帰って来ない。探検船には、海図も羅針儀もない。だいじょうぶ、たしかに帰ってくるとは思うが、ちょっとでも方角がそれたら、この島を通りこしてしまうかもしれない。そうしたらたいへんだ。それにしても、西の島は見つかったろうか。ある者は、見はりの砂山にのぼり、やぐらにのぼり、また海岸に立って、星空の下の、まっ暗な水平線を、瞳《ひとみ》をこらして心配そうに、何か見えはしないかと、見つめていた。
しかし、探検船は、帰ってくるけはいもない。時は、ずんずんたっていく。
「火をたけ」
運転士の号令だ。一同は、さっと緊張した。ばらばらっと、砂山にかけあがり、たちまち、大かがり火をたきはじめた。
二時間も三時間も、たきつづけた。たきぎがありったけもやそう。かめの甲、魚の骨、かれ草、油、これもありったけもやしつづけよう。見はりやぐらにのぼった者も、海岸に立った者も、やみをすかして、黒い海を見つめるのであった。今にも船が帰って来るかと、いや、どうぞ帰って来ますようにと、心に念じ、全身を目にして……
一方、われらの伝馬船では、ゆくてのやみの水平線に、かすかな火《ほ》さきを見つけた。
「島で、火を見せている」
「みんな、待っているぞ」
「みやげものに、たまげるぞ」
たいせつなたきものを使って、火をあげているのを見ては、櫓を漕ぐのにも、しぜんと力がはいる。それに追潮だ。船足ははやい。伝馬船のへさきは、火の方に向いていたから、そのままうんと漕いだ。
島のみんなの心配のうちに、とうとう午後十時すぎごろになった。
「おお、伝馬船が」
浜に立っていた漁夫の一人が、大声にさけんで、飛びあがった。
「おうい」
島に居残った一同は、声をあわせてさけんだ。
と、海から、
「おうい」
と、かすかな返事が聞えてきた。つづいて、
「よんさ、ほうさ、ほらええ……」
櫓拍子にあわせる掛声が、遠くから、だんだんはっきり聞えてくるではないか。
船が帰ってきたというので、かがり火は、海岸にうつされた、そのかがり火の、あかるい光の中へ、伝馬船は、おみやげを山とつんで、ぶじに帰りついたのだ。
「お帰りなさい。どうでした」
「宝の島が見つかったよ」
「これこのとおり、かめが六つだ」
「流木が満船だ」
「こりゃ、たまげた」
るす居した者たちは、かめや流木を、やんさ、やんさ、と浜へおろし、伝馬船を砂浜へ引きあげた。さっきまでの心配は、どこへやら、大喜び。それから、かがり火のそばで、円陣をつくって、宝島の話にむちゅうできき入った。
「や、もう夜中だ。ごくろうだった。みんなおやすみ」
探検もぶじにすんだのだ。全員はそろって元気だ。私は、きらめく満天の星をあおいで、立ちあがった。
探検の翌日、六月二十一日、朝食後、きのうの探検で発見した島に、「宝島」と名をつけることにきめ、今われわれの住んでいる島を、「本部島」とよぶことにきめた。
それから、宝島から、たきぎとかめとを運ぶことについて、そうだんをした。
伝馬船で、宝島と本部島の間を航海するには、天気をじゅうぶんに見きわめて、海のおだやかな時でなければできない。十月になると、海は荒くなって、交通はできない。それまでに、できるだけたくさんの流木《りゅうぼく》とかめとを、本部島に運んで、冬の支度をしなければならない。
そこで、さしあたって、六人が伝馬船に乗って、宝島に渡ることにする。そして、流木とかめとをつんだ伝馬船は、三人で漕いで帰り、あとの三人は島へ残って、流木を集め、かめをとらえて牧場をつくって、つぎの船を待つ。つぎの船で、本部島から三人が出かけて行き、島の三人と交代して、宝島に残る。宝島には、いつでも三人ずつ残ることにする。
本部島からは、飲料水を石油缶につめて送るが、宝島でも、天幕の屋根から雨水をあつめて、ためておくくふうをすること。宝島での食物は、魚をつってたべることにして、かめは、まんいち魚のとれない時の用意に、いつでも十頭ぐらいは、食用として残しておき、あとのかめは、本部島へ送ること。
また、島をよくしらべて、なんでもめずらしいと思ったもの、発見したものは、どんな小さいことでも、かならず本部島へ報告すること。
伝馬船は、朝早く、まだ暗いうちに出発して、日中の航海をして、夜の航海はしない。けっしてむりをしてはいけない。たとえ出発しても、天気がわるくなったら、すぐとちゅうからひき返して、気長に天気のよくなるのを待つようにすること。
宝島で、いちばんだいじなことは、通る船の見はりである。宝島には、流木がたくさんあるから島に着いたらすぐに、高いやぐらをつくって、そこから、一人はきっと、四方の海を見はること。信号の「たき火」は、宝島にはたきぎがたくさんあるから、すぐできる。あとは、いつでも火種のとれる、万年灯《まんねんとう》をつくればいい。
これらのことを、しっかりときめた。
それから、いよいよ宝島へ行く、水夫長以下をきめた。飲料水を石油缶につめたり、天幕にする帆布、索《つな》、万年灯の油、つり道具、まんいちの用意として、かんづめ十個、マッチの小箱一個をかんづめの空缶に入れ、雨着の布でげんじゅうに包んだものなどをとりそろえて、あすでも天気がよければ、出発できるようにした。
無人島教室
きょうの作業は、きのう宝島から持ってきた、流木のなかの、船底板にはってある、銅板をはがす仕事であった。
うすい銅板を、ていねいに釘《くぎ》をぬいてはぎとり、はがき二枚ぐらいの大きさの銅板を、六枚こしらえた。流木の中の、あつい板きれをより出して、これに銅板を釘でうちつけ、鉄釘の先をとがらせたものを、ペンのかわりにして、この銅板に、「パール・エンド・ハーミーズ礁、龍睡丸《りゅうすいまう》難破、全員十六名生存、救助を乞《こ》う。明治三十二年六月二十一日」
と、私が日本文で書き、また、おなじ意味を、帰化人の小笠原《おがさわら》に、英文で書かせた。この銅板の手紙(流し文《ぶみ》)を、海に流そうというのだ。
みんなで、伝馬船《てんません》を沖に漕《こ》ぎ出して、それを流した。
「銅の手紙よ、はやく、どこかへついてくれ。だれかにひろわれてくれ。たのむぞ――おまえには、十六人の、心をこめた願いがかけられているのだ……」
一枚、一枚、海に流すたびに、伝馬船の上から見送りながら、みんな祈った。
しかし、この流し文を配達してくれるのは、海流の郵便屋さんだ。いつ、どこへ配達してくれることか。流したところは、太平洋のまんなかで、横浜へも、アメリカのサンフランシスコへも、おおよそ五千キロメートルはある。しかし、海水のつづくかぎり、いつかどこかへ、流れつくにちがいない。風も手つだって、ふき送ってくれるだろう。流し文に、みんなは、切なる希望をつないだ。
銅板の手紙は、おひるごろに流した。午後の学科の時間に、私は、「なぜ船底に、銅板をはるか」という話をした。
陸の人の、ちょっと気のつかない船の底――船の海水につかっている部分――には、海藻類や貝類がくっつく。それがだんだんに成長して、船底いちめんになって、船底板が見えなくなってしまう。ちょうど、地面に雑草や苔《こけ》がいちめんに生えて、地はだが見えなくなるのとおなじだ。こうなるとすべすべした船の底板が、ひどくざらざらになって、すべらなくなるから、船の速力が出なくなる。帆船もこまるが、汽船では、よほどたくさん石炭をたかなければ、船底がすべすべしている時のように、走れなくなる。
木船だと、またこの上に、船食虫《ふなくいむし》という虫が、船底の木板を食って小さなあなをあけ、その中に住むようになる。そして、船底いちめんにあなをあけて、蜂《はち》のすか、海綿のようにしてしまう。これは、おそろしいことで、船の中へ海水がはいってくるばかりか、あらしのとき、荒波とたたかっていた船が、虫食のために船底がこわれて、沈没したこともある。むかし西洋で、軍艦が木船であった時代には、
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