ことにする。それでは小笠原、このめがねを」
 と、私は、天幕の柱にかけてあった、双眼鏡を取って手わたした。双眼鏡を受け取って、首にかけた小笠原は、大まんぞくのように、にこにこして、天幕を出かけたが、みんなの方をふり向いて、
「みんな、安心しておやすみ」
 といって、右手をあげてあいさつして、砂山の方へ、出かけていった。そのすがたは、まるで、昔のギリシャの彫刻の、海の神の像のように、どうどうと、たくましいものであった。
「今夜は、つかれているから、みんなもう、おやすみ」
 私の一言に、全員は立ちあがった。
 炊事のあとしまつも、天幕のせいとんもすんで、一同は横になると、一日の労働のつかれで、なにを考えるまもなく、すぐ、ぐっすり眠ってしまうのであった。

 私は、倉庫の天幕から、一枚の帆布と、一本の細い索《つな》を持ってきた。そして、運転士と漁業長とをつれて、天幕のまわりと、伝馬船《てんません》を見まわってから、砂山にのぼった。
 細い金のかまのような月がでて、海もなぎさも、ものかなしげに光っている。小笠原は、もじゃもじゃひげを風にふかせながら、のしのしと、しっかりした足どりで、砂山の上を、あっちこっち歩いて見はりをしていた。かわいそうに、かれはまだ、おなかのぐあいがよくないのだ。私は、
「小笠原、今夜はありがとう。よくいってくれた。よく見はりに立ってくれた。わかい者たちのためを思ってくれたことは、私には、よくわかっている。これからも、たのむよ」
 こういって、かれの肩をたたいた。
「経験のある者だけに、わかることです。船長に、そんなにいっていただいて、うれしいです」
 かれは、右手をあげて、空を指さしつつ、
「あの細い月がわかい者にはどくです。あの月を見ているうちに、急に心細くなって、懐郷病(国のことを思って、たまらなくなる病気)にとりつかれますから」
「そのとおりだ。それよりも、おまえには、夜の風がどくだ。まだ腹もよくないようだね。夜の見はり当番ちゅうだけ、これを腹にまいておくといい」
 私は、帆布と細い索を、さし出した。
「この老人を、それほどまでに……ありがたいことです」
 かれの目には、細い月の光をうけて、星のように、ちらっとつゆが光った。

   見はりやぐら

 翌朝《よくちょう》、しらしらあけであった。夜中から、小笠原《おがさわら》と交代して、見はり当番をしていた水夫長が、天幕《テント》に飛びこんできた。
「船長。たいへんな流木《りゅうぼく》です」
 浜に、たくさんの材木が、流れついたというのだ。
「みんなを起せ」
 私がいうと、水夫長は、大声でどなった。
「総員、流木をひろえ」
「それ」
 一同は、飛び起きて、浜べに走った。なるほど、いちめんの流木だ。大小の丸太、角材、板、空樽《あきだる》などが、夜のまに流れついていた。これは、われらの龍睡丸《りゅうすいまる》が、くだけて、ばらばらになって、乗りあげた暗礁《あんしょう》から、流されてきたのだ。みんな、かなしい、なつかしい気もちになって、小さな板きれまで、すっかりひろいあつめた。
 なかに、太い円材が、二本あった。龍睡丸の帆桁《ほげた》である。これはいいものが流れついたと、一同はよろこんだ。これと、三角|筏《いかだ》の一骨にした円材と、三本の長い円材を、すぐ砂山に運んで、砂山のうえに、見はりやぐらを立てる作業をはじめた。
 大きな円材など、重たい長いものを、船では、ふだん取りあつかっているが、それには大きな滑車や、太いながい索《つな》や、いろいろの道具を使って動かすのである。いまわれわれは、そんな道具を何ももっていない。しかし、運転士と水夫長とは、この方面にかけては、それこそ、日本一のうでまえがあるのだ。いろいろと工夫して、三日がかりで、りっぱな三本足のやぐらを、砂山の頂上に立てた。
 まず、砂の上に、三本の円材を立て、そのてっぺんを三本いっしょに、しっかりと、じょうぶな索でしばった。そして、その少し下に、横木をしばりつけ、この横木に、板と丸太を渡して、見はり番の立つところをつくった。のぼりおりの階段には、横木をしばりつけた。
 やぐらの高さ、四メートル半、砂山の高さと合わせて、海面上からは、十二メートル半である。この頂上に、昼夜、見はり番が立って、通る船は見のがすものかと、ぐるりと島を取りまく、半径七カイリ半の水平線を、一心こめて見はるのであった。

 さて、やぐらから、通りかかった船を見つけても、船の方では、無人島に、十六人が住まっているとは思うまい。そのまま行ってしまうにちがいない。そこで、船を見つけたら、信号をしなければならない。
 こういう場合に、
 ――ここに人がいる。助けてくれ――
 という信号は、煙をあげ、火を見せることで、この信号は、世界中、どこの国の船員にもわかるのである。
 やぐらができると、さっそく、かがり火をたく支度をした。やぐらの下の砂山の上に、魚の骨、かめの甲、かれ草、板きれなどを、三ヵ所につみあげ、雨にぬれないように、帆布をかけた。そしてかめの油を入れた石油|缶《かん》を手ぢかにおいて、いざという時、万年灯から火種をとって、大かがり火をたき油をかけて、どんどん、煙と火をあげようと、待ちかまえた。
 こうして、見はりをおこたらなかったが、その間には、雲のかけら、海鳥の飛ぶすがたも、船かと思ったり、また、夜ともなれば、
「あ、船のあかり」
 と、星の光に、胸をおどらせたことも、たびたびであった。
 島を中心とした、まんまるな水平線に、ただ目をこらして、通りかかる船を、一日千秋の思いで待った。だが、船はいつ通ることか。一ヵ月後か、一年後か、あるいは…… しかし、いつかは、きっと通るにちがいない。

   魚の網

 毎日のたべものをこしらえる料理当番も、なかなかの大仕事であった。たきぎを節約して、魚をつって、十六人分の三度の食事の支度をするのである。
 六月のはじめから、魚がつれなくなった。みんな、すき腹をかかえる日もあった。
「網がほしい」
 と、漁業長がいいだした。そこで、さっそく、網を設計した。大きさは、長さ三十六メートル、高さ二メートル。
「網をすく糸は、帆布をほぐしてとった糸に、よりをかけよう。網につけるうきは、木をけずって焼いたもの。おもりは、流木についていた、大きな釘《くぎ》や金物を使い、たりないところは、タカセ貝をつけよう」
 というのである。すぐにはじめることになって、手わけをして、作業にかかった。
 せっせと帆布をほぐす者。ほぐした糸に、よりをかける者。板をけずって、網すき針をつくる者。ずんずん支度ができた。四人の会員は、網をすいた経験があるので、網すき専門にかかって、朝から晩まで、毎日手を動かして、十四日間で、とうとうりっぱな網ができあがった。
 さあ、まちかねた網だ。さっそく、伝馬船《てんません》に網をつんで、海上で働く者、なぎさで働く者、と、持場をきめて、総がかりで、網をたてた。すると、どうだ。とれたとれた、網いっぱいの魚で、どうにもならない。みんなは、長いぼうで、網から魚を追い出すのに、大骨折りをした。われわれは、これから先、いつまでも魚をたべて、生きて行かなければならない。それで、必要なだけの魚をとって、あとはにがした。
 これで、網さえあれば、とうぶん、食糧はじゅうぶんである。しかし、みんなは、いくら魚がとれても、腹いっぱいたべるくせをつけないように、腹八分にたべることを、申し合わせた。それは、冬になって、しけがつづいたり、魚がいなくなる季節がきて、網でも魚がとれなくなるかも知れない。その時の、食糧節約になれるよう、腹をならしておくためであった。
 料理当番は、食器の心配もしなければならなかった。お皿には、クロチョウ貝を、おわんにはタカセ貝、お鍋《なべ》には、シャコ貝を使った。

   海鳥の季節

 島には、一日一日と、海鳥が多くなった。
 海鳥があつまる季節が、やってきたのだ。ついに、島いちめんの鳥になって、それが卵を生みはじめた。
 あひるくらいの大きさの、オサ鳥をはじめ、軍艦鳥《ぐんかんちょう》、アジサシ、頭の白いウミガラス、それから、アホウドリなどが、二メートル四方に、六、七十も卵を生むので、まるで島は、卵を敷石のかわりにしいたようになった。
 鳥は、せまい島の草原や、白い砂の上に、同種類ずつ集まって、けっして、入りまじってはいないのだ。鳥で色わけができていて、それは、国別に色をつけた、地図のようであった。
 卵は、むろん食糧にした。ゆで卵にしたり、また、シャベルにかめの油をたらして、火にかけ、シャベルをフライパンの代用にして、魚肉入りのオムレツをつくるなど、料理当番は、かわるがわるうでをふるって、毎日、卵ばかりごちそうした。

 この鳥の群を見ていると、おもしろい。
 軍艦鳥は、じぶんでえさの魚をとらずに、オサ鳥が海上を飛びまわって、さんざん働いて、うんと魚をのんだころを見さだめて、ふいに飛びかかって攻撃し、ひどくいじめて、のんだ魚をはき出させて、横取りしてしまうのだ。
 軍艦鳥は、鳥の追いはぎだ。
 しかし、われわれもときどき、軍艦島のまねをした。腹いっぱい魚をのんで、海岸にぼんやりしているオサ鳥を、ふいに、大声でどなったり、ぼうで地面をたたいておどかして、四、五ひきの魚をはき出させ、それをひろって、つりのえさにしたこともあった。
 アホウドリは、とても大食いな鳥だ。胃も食道もいっぱいになっても、まだ魚をのんで、大きな魚を半分、口からだらりとぶらさげて、胃のなかの魚の消化するのを待っていることがある。こんなときは、おなかがいっぱいで、よく飛べないらしい。ぼんやり、海にうかんでいるすがたは、まったくのアホウドリだ。
 ゆだんのできないのは、ウミガラスで、じつによく、ふんをする鳥だ。白い頭、目のまわりも、めがねをかけたように白。尾は黒く、全身は、鉄ねずみ色である。それがむらがって飛んでいるので、飛んでいる下は、ふんの雨が降ってくる。天幕《テント》のそとに出ると、われわれのまっ黒に日にやけた全身は、ウミガラスに、ふんの白がすりをつけられてしまう。

 鳥の卵は、じつにおびただしい数で、いくら注意して歩いても、きっと、いくつかの卵をふみつぶすくらいだ。それが、何万というひなどりになったときの、さわぎと、やかましさ。夜が明けるやいなや、日のくれるまで、たえまもなく、親鳥が、かあかあ、げえげえ、ひなどりがぴいぴい、まったく、たいへんなやかましさである。だが、毎日卵をたべさせてくれる鳥だ。われわれは、鳥をいじめはしなかった。
 アジサシのひなは、まだ、羽が生えそろわないのに、よちよち歩いて、ぴいぴい鳴きながら、波うちぎわに、たくさんむらがって、親鳥が、海から魚をくわえて帰ってくるのを、待ちわびている。沖から飛んで帰った親鳥は、まちがいなく、わが子をさがし出して、えさをやっている。まっ黒なはだかの、たくましい男たちが、うで組みをして、じっとこの親子の鳥を見ていた。
 漁業長は、
「おい、親のありがたいことが、わかったろう。これからは、いっそうからだをだいじにして、国に帰ったら、うんと親孝行をしろよ」
 といった。

 鳥が人を攻撃する。といっては、少し大げさだが、夕方、一日の作業を終って、さて一|風呂《ふろ》と、太平洋という、大きな自然の風呂にひたっていると、海鳥が、頭をつっつきに来て、あぶない。とがったくちばしで、ずぶり、やられてはたいへんだ。この大風呂にはいっている間、足の方はふかの用心、頭は海鳥の用心をしなければならなかった。
 海鳥は、海面にういているものは、なんでも、たべられると思うらしい。航海中、海に落ちた水夫が、たちまち、アホウドリの襲撃をうけて、ボートが助けに行くまでに、あの大きなとがったくちばしで、頭にあなをあけられたり、殺されたりした話もある。
 海鳥の肉は、たべなかった。ぜいたくをいうようだが、正覚坊のおいしい肉をたべつけていては、海鳥の肉は、まずくてたべられないのだ。

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