面にひろがると、気ちがいのようにさわぎたっていた波も、おとなしくすがたをかえるのである。
荒れくるう波を見ていると、大きな馬が、何万頭となくならんで、まっ白いたてがみをふりみだし、はてもなくつづいて、くるい走るようだ。それが油を流すと、白いたてがみをかくし、ただ、上下に動く大波となるのである。昔から世界各国の船の人は、油が波の勢いをよわめることを、よく知っている。
これは、大しけで、めちゃめちゃにもてあそばれていた捕鯨船が、もうだめだ、と、あきらめかけた時、急に、船の動き方がゆるやかになり、波がうちこんでこなくなったので、ふしぎに思ってあたりを見ると、死んだ鯨が、ちかくに流れていて、その鯨から流れだした油で、波が静かになっているのがわかったことから、油が波をしずめるのに、ききめのあるのを知るようになったのだ。しかも油は、ほんのわずかでいいのだ。たった一てきの油でさえ、二メートル平方の海面を、静かにする。伝馬船をおろすため、本船のまわりいちめんに、静かな海をつくるのには、一時間に、約〇・五リットルの油を、ぽたり、ぽたり、と海に落していればいい。学者のいうところによると、その油は、どんどんひろがって、一ミリの二百万分の一という、想像もつかぬうすい膜となって、海面をおおい、波をしずめるのである。
それで龍睡丸《りゅうすいまる》の乗組員も、たけりくるう波を、油でしずめようとした。
石油|缶《かん》に、海がめやふかの油を入れ、小さなあなをいくつかあけて、二缶も三缶も、海に投げこんだ。しかし、岩にあたってあれくるい、まきあがる磯《いそ》の大波には、油のききめは、まったくなかった。
いよいよ、運転士と水夫長が、伝馬船に乗りこむと、伝馬船をつってある滑車の索《つな》に、みんなが取りついて、そろそろおろしはじめた。
波のあいまを見さだめて、やっと、水ぎわまでおろした。
そこへ、山のような怒濤《どとう》が、ざぶっ、とやって来た。ただひとのみ。あっというまに、伝馬船も人も、見えなくなった。
あとは、ただ白い波が、いちめんにすごく、わき立っているばかり。
さすがの一同も、顔色をかえた。命のつなとたのんだ伝馬船は、波にのまれてしまった。たのみにしている指導者の、運転士と水夫長は、波にさらわれてしまった。もうわれわれは助からない。
船長の私も、決心した。もちろん、ほかの乗組員も、そう思ったにちがいない。だれも、ひとこともいわない。ずぶぬれになって、青い顔をしていた。
このまま、龍睡丸は、伝馬船と同じ運命になって、ここで死ぬのか。みんなは、おどりくるう白波を見つめて、だまっていた。
一秒、二秒、三秒。
「おっ」
「あっ」
「やっ」
とつぜん、二、三人が、おどろきの声をたてた。岩の方を指さし、口をもぐもぐさせている者もある。見れば、向こうの波の上に、一、二メートル頭を出している、ひらたい岩のねもとに、伝馬船が底を上にして流れついているではないか。
やっ。黒い頭が二つ、白い波のなかにうきだした。
しめたっ。二人は、岩の上へ、はいあがって行く。
ごうごうと鳴りひびく波の音で、どんな大声でも、百メートルもはなれていては、聞えはしないが、手まねと身ぶりで、二人ともぶじだ、伝馬船も大じょうぶだ、と、知らせているではないか。
「ばんざあい」
思わずほとばしる、よろこびのさけび。
「ああ、よかった――」
みんなは、ほっとして、顔を見合わせた。
波の上の綱渡り
これで、伝馬船《てんません》では、上陸できないことがわかった。
そこで、まるい救命|浮環《うきわ》に、細い長い索《つな》をつけて流してみると、岩の方へ流れる潮と波とに送られて、すぐに岩に流れついた。
岩の上の二人は、浮環をひろった。これで、岩と船との間に、細長い索がはられた。
船では、すぐに、マニラ麻《あさ》でできた太い索を、この細い索にむすんで、ずんずんのばして、岩の上でたぐってもらった。
こうしてこんどは、船と岩との間に、じょうぶな、マニラ索がつながった。そして、マニラ索のはしを、しっかりと岩にしばりつけてもらうと、船では、たるんでいる索を、えんさ、えんさ、と引っぱり、索をぴんとはって、しっかりと船に止めた。
この太いマニラ索を、索の道――索道《さくどう》にしようとするのである。これが、岩にあがるための、命のつなになるのだ。
つぎには、この索道に、一本のじょうぶな索をまわして、輪をつくった。これに、
人がぶらさがるのだ。そしてこの輪に、別の長い索のまんなかをむすびつけて、その一方のはしを、岩の上に送った。そして他のはしは、船に止めておいた。
岩と船との間には、こうして、二本の索が渡された。一本は、両方のはしが、しっかりしばってある索道で、もう一本は
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