十六人の島生活の話をきいた、的矢丸の水夫や漁夫たちは、
「えらいもんだなあ」
 と、すっかり感心してしまった。そして、伝馬船が島へむかって出発したあと、十六人のうわさばかりしていた。そこへ、日がくれてから、水夫長が、水夫部屋へとびこんできた。
「おい、みんな聞いたか、あす、十六人をミッドウェー島へ移すのだとさ」
「どうして、本船に乗せないのです」
「糧食と飲料水の心配なら、わしら、いままでの半分でも、四半分でも、がまんします。どうか、本船に乗せてあげてください」
「そうだとも。十六人は、わしらのお手本だ」
「船長に、みんなで、お願いしよう」
 こんなわけで、一同の願いがきき入れられて、十六人は、的矢丸に乗り組むことになったのだ。船長も、はじめから、こうしたかったのだ。しかしそうすれば、乗組人数は、これまでの二倍になる。米は、数ヵ月よぶんによういしてあるからだいじょうぶだが、水タンクの大きさにはかぎりがある。飲料水は、いままでの一人一日の量を半分にしても、こののち幾日も雨が降らず、水がえられないと、さらに三分の一にも、へらさなくてはなるまい。これを、部下の船員が、はたしてしんぼうするだろうか。この心配から、気のどくではあるが、十六人に、ミッドウェー島で待っていてもらうことを考えたのであった。

   母国の土

 的矢丸は、できるだけ水を節約しつつ、愉快な航海をつづけた。十六人が乗り組んでから、船内は、いっそうほがらかに、的矢丸乗組員は、たいへん勤勉に、そして、規律正しくなった。それは、十六人が恩返しに、的矢丸の仕事に、まごころをつくして働くのを、見ならったからだ。
 島の教室は、的矢丸船内にうつされた。そこでは、的矢丸乗組員の一部もくわわって、学習がはじまった。こうして龍睡丸《りゅうすいまる》乗組員は、勉強のしあげができた。また、的矢丸も、りっぱなせいせきで、遠洋漁業をすませて、故国日本へ帰ってきた。

 明治三十二年十二月二十三日。十六人は、感激のなみだの目で、白雪にかがやく霊峯《れいほう》富士をあおぎ、船は追風《おいて》の風に送られて、ぶじに駿河湾《するがわん》にはいった。そして午後四時、赤い夕日にそめられた女良《めら》の港に静かに入港した。
 十六人は、的矢丸の人たちに、心の底から感謝のことばをのこして、「よし、やるぞ」の意気も高らかに、なつかしい母国の土を、一年ぶりでふんだ。そして、すぐその足で、女良の鎮守《ちんじゅ》の社《やしろ》におまいりをした。
 島で勉強したかいがあって、いままで、ろくに手紙もかけなかった漁夫や水夫のだれかれが、りっぱな手紙を出して、両親や兄弟を、びっくりさせたり、よろこばした話もある。また、四人の青年は、翌年一月、逓信省《ていしんしょう》の船舶職員試験に、みごときゅうだいして、運転士免状をとった。これだけでも無人島生活はむだではなかったと、私はうれしい。
 その後、しばらくして十六人は、また海へ乗り出して行った。

 中川船長の、長い物語はおわった。ぼく(須川《すがわ》)は、夢からさめたように、あたりを見まわした。物語のなかに、すっかりとけこんでいたので、よいやみせまる女良の鎮守の森の、大枝さしかわすすぎの大木の根もとに、あぐらをくんでいるのだと思っていたが、この大木は、練習船|琴《こと》ノ緒《お》丸《まる》帆柱で、頭上にさしかわす大枝は、大きな帆桁《ほげた》であった。
 見あげる帆桁の間からは、銀河があおがれた。夜もふけて、何もかも夜露にぬれ、帽子からぽたりと落ちた露といっしょに、なみだがぼくの頬を流れていた。



底本:「無人島に生きる十六人」新潮文庫、新潮社
   2003(平成15)年7月1日発行
   2003(平成15)年10月15日4刷
入力:kompass
校正:松永正敏
2004年5月8日作成
青空文庫作成ファイル:
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