ろくぶんぎ》が三個。経線儀《けいせんぎ》(精確な時計)が二個。羅針儀《らしんぎ》も、すばらしいものをすえつけた。みな、漁船にはりっぱすぎるものばかりであった。
乗組員は、いずれも一つぶよりの海の勇士である。運転士、榊原《さかきばら》作太郎。この人は、十何年も遠洋漁業に力をつくしていて、船長をしたり、運転士をしたり、またある時は、水夫長もしたことのある、めずらしい経験家である。そのうえ、品行の正しい、りっぱな人格者。まったく、たよりになる参謀であった。
漁業長の鈴木孝吉郎。この人は、伊豆《いず》七島から、小笠原《おがさわら》諸島にかけて、漁業には深い経験のある漁夫出身者で、いくどか難船したこともあり、いつも新しいことを工夫する、遠洋漁業調査には、なくてはならぬ、第一線の部隊長であった。
それから、実地の経験からきたえあげた、人なみはずれた腕まえを持ちながら、温厚な水夫長。
このほか、報効義会《ほうこうぎかい》の会員四名。この人たちは、占守《しゅむしゅ》島に何年か冬ごもりをして、多くの艱難辛苦《かんなんしんく》をなめて、漁業には、りっぱな体験をもった人々。
二名の練習生は、水産講習所出身で、これから、海上の実習と研究とをつんで、将来は、水産日本に大きな働きをみせようとこころざす、けなげな青年。
小笠原島の帰化人が三名。この人たちは、昔のアメリカ捕鯨船員の血をうけていて、無人島小笠原が、外国捕鯨船の基地となってから、上陸して住んでいたが、明治八年に、小笠原島が日本の領土となった後も、日本をしたって、心から日本人となった、生まれながらの海の男。
このほかに、水夫と漁夫が三人。この十五人の人たちは、真心をつくして、私の手足となって働いてくれた。
船には、お医者が乗っていないのがふつうであった。それで、遠洋航海の帆船には、ときどき恐しいことがあった。
日の出丸という、オットセイ猟船は、船員が、一人残らず天然痘《てんねんとう》にかかって、全滅というときに、運よくも海岸に流れついて助かった。
また、松坂丸という、南洋賢易の帆船は、乗組員が、みんな脚気《かっけ》になって、動けなくなり、やっと三人だけが、どうやら甲板をはいまわって働き、小笠原島へ流れついた。これににた船の話は、たくさんにある。
日本の船の人は、白米のご飯をたべるから、脚気になって、海のまん中で、
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