だあなたがたの顏を見上げました。
彼はその夜を私の病室で明して、また來るといふことをかりそめに言ひながら、再び遠く歸つて行くのでした。あなたもそれを程近い停車場まで送るといつて、連れだつて出ていらつしやいました。
あなたがたがやがて病室の窓から見える橋のあたりまで來たと思ふ頃、私はそつと起き上つて窓の前に倚りました。黄ばみそめた銀杏の樹陰に隱れ見えしながら、豆のやうに並んで歩いて行く二人の後姿は、私がかうしてこゝに寂しく見送つてゐる事を知らずに、いつまでもいつまでも、それは永久に振り返る事を許されぬ影のやうに、だんだんと私の目路から去つて行きました。
『恐らくは、あの二人が並んで歩くのもこれが最後であらう!』
私は何となくさう感じられて心に呟きました。
十九
暖爐によつて温められた部屋はあたゝかだつたけれど、障子を開けた時に雪は音もなく外に降つてゐました。それは十二月のなかば、その日東京から着いたあなたの顏色は沈んでゐました。さうして私を見る眼には、愛と憎と僅なよそよそしさと、また自分自身の寂しさといつたやうなものが潜んでゐました。
私はあなたが襟卷をとり、外套を脱ぐ時の横顏をぢつと見て、何事かゞ東京にあつたのを知りました。そしてそれが必ずAと私との事に關してゞあるのを直感して胸をとどろかせました。でも、私の病氣はその頃だんだんいゝ目が見えてゐたのでした。
私はあなたの唇がそれのために開かれるのが恐しかつたけれど、またあなたの顏がそのために[#「そのために」は底本では「そのためた」]結ぼれてゐるのも辛く、あなたのお土産を持たせておつたを祖母の家へやり、そしてしづかにあなたが何事かを私に語るのを待ちました。
『おれはA君と絶交する事にして來たよ……』と、あなたはおつしやいました。『併し、この事は別にお前に突然な事でもなければ、又意外な事でもないだらうと思ふがね。』
私は默つてうなづき、そしてたゞ悲しく寂しくあなたの目を見、それから仰向になつて目を閉ぢました。
『おれは昨夜一晩かゝつてA君にわかれの手紙を書いて來た……』
そしてあなたは一部始終をお話しになりました。
その運動はまだ一部の間にしか認められてゐないけれど、新進氣鋭の團體であるF社の展覽會に出品したAの「マダム光子」が、當時相應に評判のよかつたのは、私も新聞でちらりと見て知つてゐました。けれども、それから私と彼との一寸した罪のない噂が、その仲間に傳へられてゐたのを私は今初めて知りました。
『けれどもおれは、そんな噂に就いてどうかういふのではない。それ程お前やA君や、又は自分を侮辱しないつもりだ……たゞ僕はそれによつて不快にされる、いや噂によつて不快にされるのではなく、噂によつておれが常々不快に、または寂しく感じてゐたことをさらにはつきりと感じさせられたのだ。お前とAとの關係――關係といふのに語弊があれば、まづその友愛――おれは常々それをさびしく眺めてゐた。おれは閑却されてゐる――さう思つた事がよくあつた、けれども、そんな氣の起る時にはすぐに自分を反省して、お前に餘所見をさせないだけの愛がおれにないのだと自分を責めた……そして寂しさをこらへて來た……』
私は身うごきができませんでした。そしたら一ぱいに溜つた涙があやうくこぼれ散るのでしたから……あなたは息を呑んで、そしてまた續ける。
『けれども、おれはもうA君對お前、そのお前對おれの關係に堪へられなくなつた。そしてそれはおれのお前に對する愛を自覺すればするほど堪へられない。今になつて、たゞ自分さへ我慢すればいいやうに思つてゐたのは消極的な考だつたと思ふ、おれはどこまでも、お前が滿足するまでお前を愛して行く! 時にはもどかしいやうな事があるかも知れないけれど、その時にはせめておれの努力を思つて我慢しておくれ……』
二〇
『おれは隨分考へた、もしお前の成長にどうしてもA君が必要であるならば……と。けれども、おれにはどうしてもさう思ふことはできなかつた。それだからおれは別れる事を斷行した。尤もお前がどこまでもおれについて來るといふ――お前には辛い道かも知れないが――意志を示してくれなかつたならば、おれはたゞ自分だけを不幸な男にしてしまつたかも知れない。けれどもねえ、おれは直接お前に尋ねはしなかつたけれど、いろいろと考へ合せて、とにかくさう判斷したのだ……尤も、それは例のお人好な、僕のうぬぼれかも知れないけれど……』
あなたは猶一分の不安をもつて私を御覽になりました。私は慌てゝ強くかぶりを振りました、そのために涙がつめたく頬に亂れました。
『もしその判斷が誤らなかつたとすれば、それはくるしみやなやみが[#「くるしみやなやみが」は底本では「くるしなやみやみ」]、その叡智を
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