心配らしく言葉の調子をかへた。私は實際いつもの時刻が來たのと、その胸を波だたせたのとによつて、兩手で熱い頬を押へながら床の中に喘いだ。
彼は私の顏の上にその手を置いた。私はそれをはづす事ができなかつた[#「できなかつた」は底本では「きでなかつた」]。
「あゝ隨分熱くなつてゐる、冷してあげようか?」
私は默つてかぶりを振つた。そのまゝしばらく沈默が續いた。私は目を閉ぢてゐながら、かれがぢつと腕組をして私を見つめてゐるのを知つた。
「あゝ神樣! もう澤山です、どうかこれより以上の何事もなくすみますやうに!」
けれども突然彼の手が私の手の上に重ねられた。そしてその手にだんだん力が込められて行つた。私はすくめられたやうになりながら、内心に烈しく神を呼び續けた。
「光ちやん! 堪忍してね! 堪忍して……」
……彼はくるりと私に脊を向けて兩手でその顏を蔽うた。……』
『三月五日。今、自分の周圍に見出すものは、白いベツドと、白い掛蒲團と白い看護服と――すべてが白い。夫に伴はれてこの病院に入つたのはたしかあの翌日だつたけれど、それから大分月日が經つたやうな經たないやうな氣がしてゐる。すべての生活が違つた。私は何だかたゞ白いものに包まれてゐる。看護婦にものを言つたり、檢温したり、藥を飮んだり、とどこほりなくやつてはゐるけれど、何だかそれは別な自分のやうな氣がする。何だか一寸忘れものをしたやうな氣持で、始終何か考へよう考へようとしてゐる。殊によつたら自分は死ぬのぢやないかしらなどと時々思ふ――それにつけても、彼はもう來ないかも知れぬ、このまゝ、私が痩せ細つて死ぬ時でも、または再び恢復して小鳥のやうに囀る事を欲する時にも……それではもう吾々の別離は來たのであらうか? こんなに早く、あつけなく、そしてそれを私達が欲しないのに!
けれども、私の心はやつぱり彼を待つてゐる。自分達の別離であり、それ故に今は別れなければならぬのをよく知りながら、彼を失ふことは私に寂しく味氣ない。私はその唇がこの額に觸れぬ前にそれを拭うた、さうしてそれは、私が私の夫と、彼の少女とに對して僅にのこした白き道であると思つた。けれども、私は彼の心をあまりに邪推したのではなかつたらうか? 自分の危い心をもつて彼の心をも危んだのではなかつたらうか? 彼はたゞ他意なく私にしたしんだゞけであつたのに……?』
十八
さあ、今は漸くをはりに近づきました、だけどもう日記はやめませう、たゞどうかもうしばらく私に語らせて下さい。
一ヶ月あまりの入院中、三回程の窄胸術《プンクチオン》をやつたために、私の呼吸は大分樂になりました。あなたは毎夜訪ねて下さる、そのために私は夜になるのがすきでした。夕方から夜にかけて、私はそれをどんなに待つたでせう。それが私の一日のむすびでした、そして十時を期して歸つて行くあなたを見送つてから、やがて電燈を消して貰ひ、闇の中にもほの白く見える寢床の中に、私は靜に眠らうとするのでした。あなたの見えないうちは、私は夜になつても夜になつたやうな氣がせず、また一日が濟まないやうな氣がするのでした。それだのに、私はどうしたといふ慾張だつたのでせう、あなたの外に、私はもう一日々心ひそかに待つたものがあつたのでした、それはAが再び昔の如く私の前に現れる事をでした。けれども彼は遂に來ませんでした。
私は間もなく、私のすきだつた東京を見捨てゝ田舍に去りました。あなたは何事も知らずにその通知を彼にお書きになりました。
この旅立は、恐らくは私と彼との永久の別離であらうと私はひそかに思ひました。
『さらば私の夫よ、友よ、あなたがたはほんとにいゝ人達です、どうか私を間に挾む事なく、直接にあなたがたの手を取り合つて下さい、あなたがたの友情を私によつて躓かされることなく、お互に援け合ひ、仲よくしあつて下さい、もしもそれがつひに叶はぬものであるとも、せめては私のゐない間だけでも!』
これが私のその時の心の願でした。
そして、それから私達は一體どうなつたか?
療養のために歸つた田舍で、私は一しきり却つてだんだん惡くなつて行きました。そしてその年の初秋から翌年の花の頃まで、雪深い田舍の病院に埋れて暮さなければなりませんでした。
それらの日の寂しく靜な記臆は、まだ新しく私のおもひに浮んでゐます。……かくてさうした日のある一日、彼は突然不意にその姿を私の前に現しました。私は再び彼を見ました。そしてそれを信じた時に、私は穩なよろこびと、自分がそれほど重態であつたかといふしづかなうなづきとを得たのでした。その前後全く東京を離れて私に附き添つてゐたあなたも、彼のこの遙々な訪問をひどく喜んで下さいました。私はあなたがひそかに彼を呼んだ事を悟り、涙ぐましい氣持になつて、枕許に並ん
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