おすませになつて下さい!」
私はさう遂に心に念じた。
午後、彼は來た。私はその足音を聞いた時に、何となく胸が躍つた。けれどもふくやが取り次いだ時にはもう平靜にかへつてゐた。
「端書いつ着いて?」
「今朝。僕着くとすぐに出たんだけれど、一寸音羽に(彼の少女の所)寄つたもんだから……今日行くつて約束してたもんだから……」
「さう、ぢやあよかつたんですのに……」
私はさうした約束のあつた彼を呼んだ事に就て、今更に羞恥を感じながら彼を見上げた。
「うゝん、もういゝの。」
彼は別に心のこりなやうすもしてゐなかつた。そして枕許に坐つて、
「どう? 工合は。」と、いつものやうにじつと私の目に見入つた。
その眼は、戀人とゆつくり逢へなかつた事に就いて、決して私に不平を言つてはゐなかつた。私はそれが嬉しいやうな氣がした、同時にまた怖いやうな氣もした。彼はまた別に、
「何か用事だつたの?」と、私に尋ねやうともしなかつた。それでは、彼もまた私と同じやうな氣持でゐるのだらうか、もしかしたらやつぱり彼も何かを私達のうちに感じてゐるのかも知れない。
何だか氣味がわるい!
「早く入院したいと思ふんだけれど、なかなか室があかないんですつて。」
私は極めて平凡な事を話さうと思つた。けれどもその努力は却つて私を不自然な状態に置いた。
十六
私はいつになく彼に對して心の不自由であるのを感じた。それは私が自分の心を縛めたからではあるけれど、その抑壓の下には、どうかして危險なく彼と親しみたい、しんみりしたいといふ願が潛んでゐた。そして自分の今の身の上を哀つぽく悲しい空氣で包む事によつて、少しづつ少しづつそのおさへをはねのけてゐた。
「ほんとに思ひがけない病氣をするものねえ、あの元氣な私が!」
私はやがて、遠い過去を顧るやうに目をじつとあらぬ方にそゝいだ。
「あゝ全く、光ちやんがねえ!」と、彼も何かを考へてゐたやうに答へた。
ふと氣がついてみると、彼は私をお光さんとは言はずに、光ちやんと呼んでゐるのであつた。それは彼の最も親しさを表す時の、極めて稀な呼びかたなのであつた。
「田舍のお祖母《ばあ》さんがね、大變私のことを心配してるのですつて、そしてね、そんな東京なんぞにゐるから病氣になぞなるんだつていつてね、來い來いつていつて來ますからね、私退院したらすぐ田舍に行かうと思
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