山の中腹に立つてゐる岩は、青い望樓にのぼつた人間のやうに、さぞちつぽけにみえるだらうと思ふ私を見送つてゐます。また前を見れば山から山にかさなり續いて、その狹間の緑の下から、私の前には一旦隱れてゐる道のつゞきが細く細く、一筋の糸のやうに見えてゐます。前を見ても後を見ても、また横を見ても、この時私の外には、たつた一人の人の影も見る事が出來ませんでした。朝の氣の漲つたぐるりは清淨で、そしてしいんとしてゐました。
 ふと氣がついてみると、こまやかな霧の中を縫つて來たために、私の着物の袖はしつとりと霑つてゐました。さうしてどうしたといふのでせう、その時私は別にこれぞといふ心を覺えることなしに、いつか自分が涙ぐんでゐるのを知りました。そしてそれを知つたはづみに、はらはらとつめたく涙が頬につたはるのを覺えました。

        二

 それは何といふ靜な心の境だつたでせう。そのしづかさに波だたせるやうな身じろぎも恐しく、寸分も今歩いてゐる體の位置を易へまいとするやうに、つめたいものゝつたはる頬をそのまゝにして、私はやつぱりとぼとぼと歩きつゞけてゐるのでした。
 私は今その心持に、殊更な意義をつけたり、またかれこれとむづかしく説明を加へたりしたくありません、それはまた決して出來ない事です。たゞ一年有半私を孤獨にして、すべての愛する者から遠ざけて置く病氣が、そんな風に私を感じ易くしたのだといへば事足ります。あんなにはしやぎやの、却つてあなたを寂しませる位にはしやぎ出すのが常であつた私が、人知れずあなたと私とのためにかくれがを思ひ、寂しいしづかな道を二人のために備へようとしてゐるのを、あなたはお信じになることができますか。もしお信じになつても、それをやはり私の病氣の故に歸して、肉體の元氣の恢復と共に、跡方もなく消えて行く心と御覽になりはしませんか。けれどもそれはさうでないと言つたところで、また或はさうであるかも知れないのですけれど、私は今この現在を餘所にして未來を語りたくはないし、またあなたにも、この現在よりも先に未來を思つて頂きたくはありません。さうして私は今それを信じてゐます、あなたが必ず私のその心に同意を表して下さるだらうといふことを。
 覺えてゐらつしやるでせう、あの今年の冬の二月、田舍の病院であなたを待ち切つてゐた私が、あなたの顏を見るとすぐに、あの寒い障子を開けて、しづ
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