道
――ある妻の手紙――
水野仙子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)棲所《すみか》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)眠つてしまひ[#「しまひ」は底本では「しひ」]
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一
まだ九月の聲はかゝらぬのに、朝夕のしんめりとした凉しさは、ちようど打水のやうにこの温泉場の俗塵をしづめました。二三日このかたお客はめつきりと減つて、あちこちの部屋にちらりほらりと殘つてゐる浴衣の人は皆申し合せたやうにおとなしくしてゐます。煙管を煙草盆に叩く音や、女中を呼ぶ手の音や、鈴の音が、絶間なく響く谿流の中に際立つてほがらかに聞えるのも、空虚になつた宿のしづかさを語つてゐます。これでやうやく私は自分の棲所《すみか》にかへつたやうに、安易な心持で朝々の蚊帳をぬけ出る事が出來ます。けれども寂しい。
今朝、私はこまかに降つてゐる霧の中を、宿の重い山桐の下駄を履いて、音高く橋の上を歩いて見ました。つめたくさわやかな風は、寢卷の上にはおつた袷羽織のなめらかな裏を通つて、袖と袖を離し、縮緬の重さを頼つて、羽織を私の肩から奪はうと企てゝゐました。
『およし、わたしは寒いんだから!』
私はかう呟きながら川風に逆ひつつ橋を渡つて、それから左の方の道へと足を向けました。左へ、私はこれまでついぞ一度もこの左へは足踏をしてみませんでした。それはますますこの地を奧深く導くところのそれで、小高い宿の廊下に立つて見ると、ちようど地の帶のやうに樹立の下に敷かれてみえるのでした。磐梯の麓をめぐつて行く汽車もそちらへ、さうしてその殘して行く煙の末を見まもりながら、こゝに寄つた郵便屋がまた更に、その左の方の道を辿つて行くのを見る度に、一山越えた里の人家を、そゞろになつかしく思ひやるのでしたけれど、私はやつぱり曾て自分が來た方の道へ、誰か自分を訪ねて來る人に、途中でめぐり合ふことでもあるやうな當もないあこがれをもつて、やつぱりつい右の方の道へと歩いて行くのが常なのでした。
二つの流もまた右へと走つてゐました。私はその水音に逆ひながら、洗はれたやうに小砂利の現れてゐるでこぼこした道を、きりぎりすの鳴く音を聞き流しつゝ、とぼとぼと辿つて行きました。水際の叢にはまつ白な山百合の花が、くつきりとした襟元をみせてうなだれてゐました。ふりかへつてみると、
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