思へば、その當時の事は、たゞ一寸深き注意を要したに過ぎぬ位の事であつたかも知れないけれど、これといつて一生の根を張るものにめぐり合はず、離れつ即きつしつゝ漂つてゐる浮草のやうな生活の上にあつた私達には、ほんとに恐しいその二年間でした。
唯一の生計の道であつた語學教師の職を擲つて、落人のやうに私達は茅ヶ崎へ越して行きました。あなたの病氣は、それほど進んでゐるのではなかつたのでしたが、それでもあなたはすつかり滅入り込んでゐらつしやいました。私達はお互にめいめいな事を考へるのに無言で、お縁側には徒に暖な冬の日がさしてゐる事などがよくありました。
まあ私だけについていへば、生も死も共にといふまでに結び合つてゐない愛の隙間から――體それは[#「體それは」はママ]誰の罪であつたのでせう? 當時にあつては、あなたも私も決して愛し合ふ可く自分を制しはしなかつたつもりなのだけれども。それでは求めるものは與へらるべく、與へらるゝために私達は切にそれを求めなければならなかつたのでせうか? ――私はひそかに自分の心を滿すものを搜し求めました。
『繪でもやらうかしら?』
さう心に呟いて、私は試に鉛筆を執り、默祷してるやうに默つて動かぬあなたの横顏を描きにかかります。
『あら、動いちや厭よ。※[#判読不可、184−2] まあ、髮の毛が大變のびましたわねえ。』
さうして今更にあなたの頬のやつれに心が痛む。
『どれお見せ。』と、あなたは手をのばす。
『だめ、ちつとも似ないわ。』
『一寸うまいぢやないか、だが隨分陰欝な顏をしてると見えるねえ、僕は輪廓だけでもそれが見えるぢやないか。』
何事もすべてはそこに歸して行く。
『髮がのびたから、餘計やつれて見えるのですよ。今度あなた、暖な日にお刈になるといゝわ、床屋を呼んで來ませうか?』
私はあなたの長く延びた髮の毛に手を突き込んで、指の先でそれをいぢくりながら、急に胸がせくりあげて來るのを覺えて唇を噛むのでした。
『なぜ泣くの?』
たうとう一つ垂つた涙を見つけて、あなたは咎めるやうに私を御覽になる。
『え、何が悲しい?』
さう言はれても、私は併し答へるすべを知らないのでした。なぜ出る涙であるか、それがはつきり自分にもわかつてゐたならば、私はもつとどうにかしやうがあらうものを、私はたゞ涙が出る故に悲しく、悲しめば悲しむ程、劬られゝば劬られる程ま
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