れどもこの事は、はじめあなたをあまり喜ばせないやうでした。それはあの人を嫌ふといふよりも、あなたはその賑な談笑に、私同樣な愉快を感ずる事ができなかつたからで、あなたの無意識な要求は、自分が默つてゐたい時にはやつぱり私をもおし默らせて置きたいのでした。それにも拘らず、私はあなたが默つてしまへばしまふ程、その場を糊塗する心から、或はあなたのさうした思をAの前に隱さうとする心から、(私にはなぜかあなたのさういふ氣質をあの人に知られるのがしいやうな[#「知られるのがしいやうな」はママ]氣がしたのです。)微細な心づかひをあなたの上に取られつゝも、ますます賑にはしやぎ出すのでした、さうして鋭敏なAの神經がそれを感じ、いたむやうに私を見るのを知る時、私は恥しさと、寂しさと、腹だたしさのまぜかへしたやうな心を覺え、自分にももはや苦痛であるところの快活さを裝はうとするのでした。
けれどもAは辭して行く。さうしてあなたは、やつと私が自分のものになつたやうなやすらかさを感じ、しづかに優しく私を御覽になる。けれども私はやつぱり寂しかつたのです、私は疲れ、さうして僅に悲しみ、あなたを劬り、慕ひ、またわつかほど厭ひ、何をどこに求めていゝかわからぬやうな心をもつて、寂しく無言にあなたの首を抱くのでした。
日向を求めてあらぬ方に向いては咲いても、根を張つた土のしめりを、向日葵とても決して忘れることはできないでせう――やつぱり私も、あなたを餘所にして全き自分があり得ようとも思へないのを、今更にしみじみと考へ耽つてゐます。
あ、今うしろの山に郭公が啼いてゐる……
七
八月末の某日朝。枕に響く谿流の音は、今朝もまた、せめてもに暖く穩な眠から、温泉宿の一間の寂しい女主人の身に私をかへさせてしまひました。昨日も、今日も、明日も、明後日も、恐らくはまたその先の日に於ても、目覺めさへすれば私はこの書きかけた手紙の先を急いで、をはりの數行を言ひたいためにばかり、過ぎし日の醜い姿を寫し出して行かなければなりません。――
『沼尾君は何か僕に不快を抱いてるんではないだらうか――たとへば僕がいつも、沼尾君の留守に來て、上り込んで話してゐるといふやうな事がですね。』
Aは時々思ひ出したやうに、こんな事を言ひ出しました。
『そんな事はないわ。』と、さういふ時、私はきまつて慌ててかう打ち消すのです
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