ゐた燈がいつか瞼にうるんでゐた。
あんなけちな安物一つ思のまゝに買ふことができないのだと思ふと、何やらうらめしいやうな氣がしてならない。それに夫が、自分が安物で間に合せようとしたことを認めてくれなかつた不平もある。二圓も出るものを、私はなんで今の場合買はうなんて言はう!
『あの家に入つて見ませう。』と、お里はずんずん夫の先に立つて、毘沙門前の下駄屋にはひつて行つた。
あれこれと桐の柾のよりごのみをしながら、お里はいつものやうに、あれがいゝのこれが惡いのと嚴しい干渉をしなかつた。
『買ひたまへ!』と、無造作に、大樣にさう言つて貰ひたかつた! そして懷に手を入れかけた時に、主婦らしい考を起して、無駄なことをと、綺麗にあそこを去つて來たかつた!……
『あなた、インキを買ふとか言つてらしたつけ、私ここで待つてますから行つてらつしやいな。』と、お里はやがて臺と鼻緒を選り分けて亭主の手に渡すと、夫に向つてさう言つた。
『うん。』
外套の袖をさやさやいはせながら夫は出て行つた。お里は腰掛を低い框に引き寄せて、火の氣の薄い火鉢に手を翳しながら、亭主の手許に見入つてゐると、夫は間もなく歸つて來た。そのまゝはひつて來るのかと思ふと、
『堅くないやうにたてゝ貰つてね。』と言ひ置いて、またつかつかと阪下の方に向つて歩いて行つた。
『どこに行つたんだらう?』
お里は怪訝さうに目をその後姿にやつた。
『もしや?……』と思つた時は、何となくどきりとした。
『さうかも知れない、あの人のことだもの。』と考へた時は、嬉しさに胸が早鐘のやうに皷動を打つてゐた。
お里は夫が默つて、そつとあの半襟を買ひに行つたのだと思つたのである。さう信じてしまふと、嬉しいやうな、有り難いやうな、先刻の不平だの、味氣なさだのは泡のやうに消えてしまつて、さうまでして自分を劬つてくれる夫の心持が氣の毒にもなつて來る。
『ほんたうにいらなかつたんだのに。』と、しんから氣の毒さうに、その癖嬉しさうに呟く胸を抱へて、『鼻緒をあんまりつめないで下さいな。』と、お里は亭主に言つた。
二人の間に溶けて流れるやうな薄甘い情緒が、この世のかぎりな幸福を齎して、感激の涙が走るやうに瞼をついて出ようとした。お里は慌てゝそれを鼻のあたりに抑へる辛さを覺えながら、『君の下駄も買つときたまへ。』と、今日の出がけに言つた夫の言葉を思ひ出した。
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