し、ちつとも寒かないがね、さつちやんが寒いだらうと思つてさ。電車の中で向側から見てゐたら、なんだか寒さうな土氣色をしてゐたよ。この頃少し痩せたやうだね。』
『さうでもないでせう。』と、お里は笑ひながら自分の頬を撫でて見たが、新しく涙が湧き出ようとしてゐるのを覺えた。
 お里はいつも優しく言はれると泣きたくなるのである。そしてつくづくこの四五箇月のことが振りかへられる。いつだつて今月こそどうしようと思はない月はなかつた。都合に依つて會社の方をよしてしまつてからの病氣だつたので、一日だつて心の落ちついてゐる時はなかつた。辛い思をして田舎の里へ無心をしたり、夫の義兄の世話になつたりして、やうやう難關だけは通り越して來たが、まだあゝしてぶらぶらとほんとの體になれないでゐる……と思ふと、夫がいとしいやら、自分がいぢらしいやら、寂しい思に閉ぢられて過したその頃が、新しく閃いて頭を横ぎるのであつた。かうして優しく夫に劬られると、感心な節婦の話ででもあるかのやうに自分が眺められる。心配と勞力に酬いられるものゝ少い失望も忘れ、月々の藥代を見積つて、そつと着物の値段と比べて見たりしたさもしい心の跡方もなくなつて、たゞ夫の上にお里の心のすべては働き出した。
『なんだか年の暮らしくなりましたね。』
 廣い世界にたつた二人が頼り頼られる體であるやうな、寂しい、その癖心強い今の思を、胸の中一ぱいに溜めて、それを少しづつ味ふのを樂しむものゝやうに、お里はぽつりぽつりと口をききながら歩いた。
 久しく家に近い牧場の牛の聲や、豆腐屋の喇叭の音などにばかり慣れてゐた耳に、混雜してはひる町の物音が、なんとなく心をせき立たせた。歳暮に間もない神樂阪の空氣は、店々の品飾の上に漂つて、新乾海苔のつやつやしい色が乾物屋の店先を新しくしてゐた。
『下駄と、足袋と、それからあなたはインキを買ふつて言つてたわね。』
と、お里は爪先あがりに阪を登りながら數へたてゝゐたが、ふと髢屋の店が目につくと、『あ。さうさう、私すき毛を一つ買はう。』と、思ひ出したやうに小ばしりにその店に寄つて行つた。
 髢屋の主人が背のびをして瓦斯にマツチを擦ると、急に青白い光がぱつとして薄暗い店先を照した。氣がつくと、阪下阪上の全體に燈がはひつてゐた。
『下駄はどこで買ひませう。』と、そこから出て來たお里は、夫と並んで歩き出しながら言つた。
『さ
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