小さな鉦の音が、眞晝らしい頃の明るい茶の間に、強い酒の匂の間を漂つて消えた。その小さなものさびた鉦の響が、急に轉じた彼の思念の方向を眞直に導いて行つた。
『南無阿彌陀佛、南無阿彌陀佛。』と、彼は突如として大きな聲をあげて念佛を稱へた。
彼は佛壇に線香をあげて來たいといふ衝動をしきりに感じた、そしてそれは是非さうしなければならないやうに、眞面目に彼を動した。
『どれ、佛樣に線香を一つあげて來つかな!』
彼は立ち上つた。そして思はずよろよろとなつたので、
『おゝ、危いぞえ!』と、正兵衞は慌てゝお膳の上に兩手を翳した。
幸吉は眞面目くさつた顏をして、二本の線香に長火鉢から火をつけると、ほそぼそと白くたち騰る烟を香立にたてゝ、羽織の裾を捌いて几帳面に畏り、佛壇を見上げながら靜に合掌した。
『南無阿彌陀佛、南無阿彌陀佛……』
正兵衞とお園とは、後から顏を見合して、彼のものものしさをほゝゑんで見てゐた。
彼は暫く瞑目し、それからまた目を上げて、大小の位牌の納めてある扉の中に眺め入つた。新しい位牌には、彼にもよく覺のある、こゝの先代の戒名が書かれてあつた。下り藤の定紋をつけた左右の花立の草
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