に行かれないのであつた。で、どつちつかずの氣持で歩いて來るうちに、彼はたうとう本家の前まで來てしまつてゐた。
『お天氣……』と、彼は大きな聲を出して店先に聲をかけた。
『いよう、どちらへ?』と、張場にゐた正兵衞[#「正兵衞」は底本では「生兵衞」]は人の好ささうな顏を上げて、その赤い顏を見ると一寸からかふやうな調子で言つた。
『大分今日は朝からいゝ御機嫌のやうだなえ。』
 それを聞くと、幸吉は急に自分がほんとの醉つぱらひであるやうな氣特になつて、
『いやどうも……』と、頭に手を上げながら愉快さうに笑つた。
『まあ、寄つてぎなんしよ。』
 と、彼は急に何の造作もなくよろけた足取になつて、
『いやどうも。』と、繰り返しながら、たうとう本家の閾を跨いでしまつた。
 茶の間では[#「では」は底本では「でば」]、家附の娘なる家内のお園が、長火鉢に小鍋をかけて何やら煮物の加減を見てゐた。
『いやどうも朝からはや。』と、いひいひはひつて來た幸吉は、羽織の裾をさばいて長火鉢の前に坐ると、腰から煙草入を取つてすぽんと鞘をぬきながら、お園とお天氣の話やら景氣の話やらをはじめてゐた。そこへ正兵衞が早速煙草入を
前へ 次へ
全28ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
水野 仙子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング