醉ひたる商人
水野仙子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)親父《おやぢ》さん

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(例)前から[#「から」は底本では「かち」]
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        一

 東北のある小さな一町民なる綿屋幸吉は、今朝起きぬけに例の郡男爵から迎への手紙を受け取つたのであつた。それはいつものやうに停車場近くの青巒亭といふ料理屋からの使であつた。幸吉はこの朝早々の招待を、迷惑に思はないでもなかつたけれど、酒の味も滿更厭ではなかつたし、それに男爵から迎へられるといふ事が内心ひどく得意でもあつた。それですぐに參上致しますと口上で使をかへしてから、小僧を督して暖簾を掛けたり、品物を街路から目につくやうに並べたりして店附を整へた。それから出來たての味噌汁で舌を燒きながら急いで朝飯をすました。彼はさて出かけようとして店先を二三間離れながら、いつものやうに一二度はそれからそれからと胸に浮んで來る用事のために帳場に引き返した。
 十一時頃に、幸吉は非常な上機嫌で町はづれの停車場から町の方へと歩いてゐた。男爵は、昨日仙臺に行く途中ふとこの町に泊らうといふ氣になつて降りたのだといつて、どてら姿で薄い髮の毛に櫛の齒を入れてゐるところであつた。それからすぐに朝飯ぬきの酒がはじまつた。格別用事といふ程のものがあるのでもなかつた。たゞ仙臺ではじめようかと思つてゐるある事業に就て、幸吉に意見をきいてゐた。つつましく酒の對手をしながら、幸吉はその話をあまり眞に受けては聞かなかつた。たゞ大體に於てそんなものはなるべく手を出すものではないといふやうな忠言をほのめかした。男爵は酒が強かつた。そして盃が重なれば重なる程腰が坐つて來て、なに仙臺に行くのはあながち今日でなくともよいと言ひ出しさうだつたのを、幸吉はうまい工合に抑へて、たうとう十時幾らかの汽車で閣下を立たせてしまつたのであつた。
 少し飮み足りない位の程度の酒が、幸吉を非常に輕やかな愉快な氣持にしてゐた。男爵が自分如き者のいふなりになつたのも愉快だつたし、又無茶な金を使はせずに(青巒亭は旅館ではあるけれもまた料理屋兼藝妓屋でもあつた)立たせてやつたといふ事が、大變いゝ事をしたやうな豪い氣持がするのであつた。
 木綿縞の羽織を着た彼の外出姿は、(この地方の商人は大抵一家の主人でも、ふだんは羽織などを着てゐない)、持前の猫背を如何にもまめまめしく見せ、その丸い背中は、兩手を腰のあたりまで下げてするお時儀の形にちようど恰好の取れるものであつた。彼は元氣な聲で、途で行き合つた知人や知合の店先やに挨拶を交して通つた。そんな時に、彼の顏は赤かつたにも拘らず、少しも醉つてゐるやうな氣振は見せなかつた。この明るいまつ晝間、めでたい祝儀にでも招ばれた譯でないのに、晝日中醉うて歩いてゐるさまを人に見られるなどは、常々の自分の勤勉に味噌をつけるものだと彼は固く信じてゐた。どんな場合にも醉うて醉はぬ本性が大事である、どんなにぐるりが目茶苦茶に面白く愉快に思へる時でも、本心はぴたりと坐つてゐて、うつかり人に冒されるやうな事があつてはならない、さう彼は豫々から思つて用心をしてゐる。その癖彼位すぐに醉つぱらつたさまをするのに巧な者はなかつた。常々頭の上らない人に向つて少し勝手な事を言つて見たいとか、それとなく日頃の不平を鬱散させたいとか思ふ時には、彼は前後の見境もなく醉うたやうなさまをしてそれをやるのである。その時言つた事や爲た事に對するすべての責任を、十分酒のせいにしてしまふ事が出來るといふ自信があるので、彼は隨分思ひ切つて氣を吐く事がある。一年に一度か二度のさういふ機會は、絶えず如才なく人の前に自分を屈し、いかなる場合にも自分の利害に就いて拔目なく氣を配つてゐる彼の緊張した日常生活に取つては、實に生命の洗濯のやうなものであつた。
 彼はやはり父親ゆづりで酒が好きなのであつた。けれども父親の飮めばきつと暴れるといふ惡い癖に子供の時からこりごりさせられ、又その爲に貧困のどん底を泳がせられた彼は、酒の惡癖を心から恐れいとはしいものに思ひ込んだがために、幸にも自分は決して酒に呑まれるやうなことはなかつた。
 子供の時から利口者の幸吉は、また感心に親孝行でもあつた。彼は十二位の少年時代から、黴毒で眼の潰れたやくざな父親と、二人の幼い弟達を抱へた母親とを養はなければならなかつた。彼は親戚から極めて僅な資本を貰つて、朝の暗いうちから天秤に下げた籠を擔いで近在の村々に出かけて行つた。それは棒手振と言つて、東京でいへば屑屋のやうな商賣であつた。さうしてその日の買入物を持つて歸つて來る頃には、いつも燈火が點々と町はづれの家並に光つてゐた。彼はまつすぐに問屋の前に荷を下して、それぞれの屑物を
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