だ。盲目の親父《おやぢ》は青い顏をして小さくなつて爐端に坐つてゐる……酒さへ飮まなけりやあ意氣地がね程、まあ確に意氣地がなかつたんだが、大きな聲も立てれぬ程おとなしかつたもんです……おふくろは茶を入れようつて、生の木をやたらにくべるもんだから、喘息持のをばさはよくむせたもんた。おふくろの背中では三郎がじくね出す、なにお客に來たつてゐたやうでも何でもねえんだげつと、それでもをばさはお茶だけでも飮んで行がねと惡いと思つて、我慢してゐられたのが、おれあ子供心にもよくわかつた……「よし、おれが大きくなつたら一所懸命稼いで金持になつて……」と、おれは恥しさのあまりに、よくかう決心したんもんだつた……』
 彼は忘れてゐた盃を取り上げて、無意識に飮み干した。正兵衞はそれを見て早速徳利を取り上げた。
『そこでだ、なえ本家。』と、彼はまたこぼれかけた盃を、首を屈めて一口吸つて、『おれはこつちのお父さから六十錢の資本を貰つた、正しく金六十錢也の資本だ……いやおれはそれを決して少いと思つて言ふんではないぞえ、全くのところおれは有り難かつたんだ、誰も親父《おやぢ》に愛想をつかして構つてくれなくなつた時に、おんつあ(叔父)はその時まだ子供のおれを見込んで、たとへ六十錢でもとにかく資本を下してくれたんだ。おんつあは言つた……「金つてものは、幾らあつても同じもんだ、無ければ儲けようつていふ氣が出るし、あれば使ひたくなる。お前の親父は、あつた爲に使ひ果して家も體も飮み潰してしまつたんだ、そしてたうとう働くつて事はどんな事だか知らないで死んでしまふんだ……さあ、こゝに六十錢ある、これを一兩にしたら、毎日毎日この六貫を一兩にする事が出來たら、お前の家のくらしは立つて行くぞ.小さくとも大きくとも商法の心はおんなしだ。いゝが、お前が病氣か何かで仕事を休んで資本をすつた時でない限は、二度とおんなじ資本を貰ひに來るやうでは駄目だぞ。お前が大きくなつて、また違つた相談をおれに持ちかける時は、それはまた別だ。」……叔父《おんつあ》はかう言つて、おれを勵してくれたんだ……それからおれは降つても照つてもかゝさず出かけて行つた。おんつあは六貫を一兩にしろつて言つたが、おれは六貫を倍にして一兩二貫にして見せる、いや二兩にして見せる、子供心にもおれはさう覺悟したんだ……ところでだ、本家。』
 彼はまた殘の盃を傾けてやつと手を空けると、急に嬉しさうに相好を崩して手の平をこすつた。目尻のあたりに寄る皺や、廣いけれども間がぬけてゐない額など、彼の顏は決して上品な部類ではなかつたけれども、それでもどこやらに――多分耳から頬にかけての餘裕ある線であらう――どこやら福相な感じのする顏であつた。しかも今はその顏に、何ともいへぬ人の好ささうな心の漂さへ見られるのは、彼の日常にくらべて誠に奇異な事であつた。
 それは恰も人間の、個々に言へば彼の、生れたまゝに備へてゐたある善良さが、少しも伸び寛ぐ機會がなくて、彼自身から常に虐げられ虐げられしてゐたものが、今彼の甘き醉の開放に遇つて、知らず識らず覗き出したとでも言へるやうなものであつた。
『親父《おやぢ》はおれを蓆の上で、虱と一緒に育てはしたが、全くやくざな親父ではあつたが、親は親だ、なえ、親は親だと、おれはさう思つて孝行をして來た。酒も買つたし、魚もお父さとお母さだけにはと、二週間に一度、一週間に一度は買つて上げた……親父が死ぬ時には、ともかく疊の上で、絹布の蒲團とまでば行かずとも、垢のつかない虱のつかないだ、とにかく新綿の入つた蒲團の上で送つてやつた……なえ、本家、おれは決してこんな事を自慢するのではあツりやせんぞ! 決して自慢するのではない、たゞおれに取つては嬉しい事だからさういふのだ。なえ、そらあしてやりたい事はどれ程あつたか知れない、また今だつて、生き殘つてゐるお母に、思ふ百分の一もしてやられないのは殘念だ、けれどもまだまだ[#「まだまだ」は底本では「まだだま」]、まだまだこれからなんだ……「今に見ろ、今に見ろ。」……』
 彼はいかにも、この今に見ろといふ言葉の心を具體化するやうに、急に調子を低めて、恰もむくむくと何かゞ首を擡げようとしてゐるかのやうに、重々しく、そして徐に言葉尻の調子を揚げるのであつた。
『おれは自分に言ふんだ、「まだまだ、まだまだ!」……それから、「今に見ろ、今に見ろ!」……』
 彼は首を振つたり、又は首を縮めて眉を聳てたりした。彼の言葉はひどく途絶えがちになつた。けれどもその間に却つて彼の實感が迸つた。
『おれは親父《おやぢ》に思ふだけの事は出來なかつたけれども、しかし親父はおれに不足を言ふ事は出來まいとおれは思ふんだが、どうだんべなえ本家……おれは思ふんだ……親父はおれを生《な》したつきり何もしてくれなかつたが、おれはと
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