を喰べずにふいと出て、近所の新吉田へ行つた。清治を後からそつとやつて見ると、旦那の峯さんと酒を飮んでゐるといふ。
 産婦にも樣子がわかつたと見えて、
『一體どうしたの、お母さん何かしたんでないかい。』と、氣を揉んで聞き出した。
『何がなんだかさつぱりお母さんにはわけがわからない、何言つたんでもなんでもなし、一人であゝして怒つてるんだもの。』
 そこへお芳がはひつて行つて、
『だから言はないこつちやない、お母さんは、またいろいろなことをいふんだもの……』
 不平はどうしても親身の者にむかつた。
『お母さんが何を言つたい?』と、母親は目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]る。
『今日は言はなくたつて、この間からお父さんとひそしそ話なんてばかりしてるんだもの。』
『それだつて何も宗三郎の惡口を言つたわけぢやあるまいし……』
『だつてだつてそれが惡いわ! 誰だつて變ちきりんと思ふわ、さうして宗三郎兄さんがはひつて來ると、ぴつたりとやめてしまふんだもの、何とか思ふに違ないわ、そりや誰だつて……』
 お芳は涙をこぼして母に喰つてかゝつた。小さな胸の心づかひや何やらで、つい興奮して言葉が烈しくなる。もつれもつれて感情が彈き合つた。
『よしよし、おゝおゝ、なんでもみんなお母さんが惡いんだ、さうしてみんなしてお母さんをいぢめろ、惡者の意地惡はお母さんばかりなんだから……どうせ……どうせ……勝の體のかはりに神樣が連れてつてくれる。一生子供の爲に心配して死ねばいゝんだ……』
 母親も泣いた。あべこべにかう怨まれて見ては、お芳はたまらなくなつて、わつとして慌てゝ顏に袖をあてた。
『どうしつぺなあ、私の病氣の爲にみんなが……』
 ほろほろと病人の顏から涙が落ちた。
『勝、勝はなんにも心配することはないぞ、なあに、なんでもないことなんだから……體に障るから。』と、母親はまたおろおろした。
 宗三郎は十時頃になつて、まつ赤な顏をして歸つて來た。
『お飯は……餅でも燒くかい。』と言つたお芳の腫れた目を見て、『いゝや、喰べなくてもいゝ。』と、義妹には優しく言つて、そのまゝ炬燵にごろりと仰むけになつた。

       九

 日に日に病人の快くなり目がついた。それにしても體はまだ少しも自由にならなかつたので、絶えず寢がへりをさせて貰ふのに人手がいつた。
 病人から涙をこぼされたので、宗三郎もあれから氣を取り直して、朝の挨拶も自分からするやうになつた。
 看護婦や澤田さんはまだ毎日通つて來て、洗滌を終へてから火鉢を圍んでよもやまの話をしていつた。煮物をしておいたり、時によつてはお餅を燒いたり、何かしらお茶うけの絶えないやうにとお芳は注意した。時々はお子さんにと、澤田さんが歸る時に蜜柑や干柿のやうな物を紙に捻つた。
 枕許の小机に並べた葡萄酒や藥罎の肩に埃が溜つた。絶えず立てどほしの屏風に、今見れば字の跡を散して血の跡見たいものが附着してゐる。じつと見て、お芳は恐しい恐しいいつかの夜の有樣を思つた。女といふものが思はれ、子といふものが思はれ、續いてさまざまな家庭といふものが思はれた。婿取はよそ目にはいゝやうだけれども人一倍辛い、かう誰かゞ言つたことも思ひ出されて、今までの姉の立場が抉り出したやうにはつきりとわかつたやうな氣がした。いづれは女、この自分までがそんな渦の中にはひるべき運命を持つてるのかと思つた。
 都へ都へと誘ふ友達のことが思はれた。
『お母さん、すまないげつとまたかへして。』と、お勝は氣の毒さうに寢がへりを催促した。
 掻卷を着て、たわいもなく居眠をしてゐた母親は、ふと首をあげて、
『またか……ほんに面倒臭いなあ、今かへしてやつたばかりだのに。』
と、億劫さうに立ち上つた。
『すみやせん。』と、切なさうにお勝は聲を落した。
『お母さんはまあ!』あんなにまで心配して大さわぎしてゐた人が!
と、お芳はなんとはなしに母親の顏が見られた。ふとしたことから、この間『お母さんは飽きたんだ!』と、病人が口をあましたのを、あまり勿體ないことをいふと思つたが……
 そゝけた白髮が穢く見える。眠を貪るやうにこそこそと行火に伏した丸い背が、影一ぱいに壁にうつつた。
 水を吸ひ切つた床の間の南天が、塵に塗れて勢なく掛軸に影を置いた。
 お芳はつくづくと頭を押へるやうな部屋の空氣を感じた。

『はあ、もうこれで安心しやした。あんたなんだつて四十幾日つてものは、芳も私も帶を解きやせんでしたからねえ、かはりばんこに炬燵にひつくりかへつてて……いやいや一方ならぬ心配をしやした。』と、加納屋のをばさんに、ある日母親が述懷めいたことを言つてるのを聞いた。
 お勝はこの間、床あげをするやうになつたら、看護婦や澤田さんや友達をみんな呼んで、一日歌留多取をするやうにと言つたので、お芳
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