らのかへしにはいつも老いたる父母、家の事情といふことが書き込まれた。どこまで自己を沒しなければならぬか?と反問して來たのに對して、凍る筆を火に翳しながら、覺束ない議論みたいなものを書いた。
 男が女に送る手紙には、いつかははてと首をかしげるやうな箇所が必ずあつた。消した跡の字を透して讀んで、お芳は我知らずほゝゑむ時があつた。
 一日看護婦が來て小半時待つてゐても、一所にやる筈の産婆の澤田さんがなかなか見えなかつた。清治が折惡しく使に出てゐたので、お芳は沖といふその産婆のゐる家へむかへに行つた。そこもお針の弟子を澤山にあづかつてゐる家で、板塀の中から歌留多の聲と賑な笑聲とが洩れた。澤田さんは、あけがた産氣のついた家からむかへに來られて、今だに歸つて來ないといふ。引きかへさうとすると、障子をがらりとあけて、
『芳ちやん。』と、女の人が笑顏を出した。
『あら!』
 それは中の姉の友達で、お芳が小さい時によくかはいがつて貰つた人だつた。歌留多に招ばれて來たものと見える。
『姉さんが惡いんだつて? どうなの、この頃は。』
『えゝ、少うし快くなつたやうなの……』
『さう、お大切に……』
 その人は財産家の娘だから、ぱつとした身なりをしてゐた。
 夕方になつて、澤田さんが裏口から忙しさうにはひつて來た。
『どうも今日は失禮しました。岡野さんのお嫁さんのお産に出ましてね。えゝまあはじめてとしては輕い方でせうねえ、けさ方二時々分から痛み出したんださうですよ、大旦那さんがまあ大さわぎをして、それはそれは、えゝ女のお子さんでしたよ。』
 強ひられたといつてほんのりとした頬を、熱い熱いと言つて兩手で叩いてゐた。

       八

『宗三郎はほんの氣の付かない男だから……あれほどの大病人の傍で、氣が付きさうなもんだのに、なんだつて青銅の火鉢へかちんかちんと煙管を叩きつけるんだもの、傍にゐて私あはらはらしてゐる。』と、母親はある時|老父《としより》と火鉢のところに顏を集めて、こんな話をしてゐた。
『むゝさうともな、少しは氣を付けなくちやあ……好い人間は好い人間なんだげつと、少うしたわいのない方だから困る。』と、老父は火なたのついた腕を火鉢の縁にならべて合槌を打つた。
『さうともい、すべて何事にも氣が付かない方だから。』
 この時宗三郎が店から忙しさうに、ついとはひつて來て、ちらと目をやつた。
『用がすんだらお茶でも飮ましやれ。』と、母親はかう言つて、思ひ出したやうに長煙管をとりあげた。
『は。』
 宗三郎はまた店へ出て行つた。

『今度は是非君にも免状をとらせたいものだ。宗三郎にだつてさうさうはいくらなんでも氣の毒だから……』
 お茶からふとこんな話になつて、二人がひそひそしてゐると、その時また二階から降りて來た宗三郎が、ふつといやな顏をして店に出て行つた。
 別段何事もなく二三日經つたが、宗三郎はある日、出かけ先から豚の肉を竹の皮に包んで、懷の中に入れて來た。お芳は七輪を夕餉の席に運んで鍋をかける。脂肪の煮えたつにほひが久しぶりで家の中に漂つて、白い蒸氣が洋燈の傍をかすめて騰つた。
『お父さん、豚が煮えやしたから。』と、宗三郎は手づから皿に肉を盛つて老父《としより》にすゝめた。
『豚え! 今日は喰べまい。』
『さうですか。』
 お芳はそつと宗三郎の顏を偸み見た。
 盲目の老父には勿論、母親にも氣の付かないことだが、お芳はいろいろなことに氣を配つて、一人ではらはらしてゐた。
 かりそめの咳一つでも、双方のさぐり合ふやうな心には大きな態度となつて見えた。宗三郎の顏色も、母親には何でもなく解釋させるやうにと苦心して、老人夫婦が小聲に話してゐた時には、お芳はきつとよそごとの口を入れた。魚の煮付一きれでも、都合の惡い時にはいゝ方を宗三郎の膳にのせた。
 朝から宗三郎が家をあけた日がある。大抵枕許で行先を斷つて行くのが、その日に限つて何とも言ひ置いてなかつた。
『なあおせん、宗三郎は嬶の病氣が厭になつたんであるまいな。』
 一日炬燵に蹲つてゐる老父は、夜になつても宗三郎の聲が聞えぬので、心配の顏をあげて通りがゝりの足音を止めた。小聲だつた。
『まさか……まさかさうでもありやすまいが……』
 母親もそれは信じなかつた。宗三郎は程過ぎて何氣なく歸つて來た。出先から姉の家へ廻つて、そこで夕餉をすまして來たといふ。顏色も別段赤くなかつたので人々は安心した。
 珍しく宗三郎は正宗の口を切つて膳の上に乘せた。その日は一日ものも言はなかつた。鐵の火鉢を傍に引きよせて、盃のひまにはぼかりぼかりと煙を吐いた。煙管を叩きつける音が烈しく、しかも絶間がなかつた。常から下戸のことゝて、すぐにもうまつ赤になつて、いつもにないことなので怪訝な顏をしてゐる清治を烈しく叱りつけた。そして御飯
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