り持つてゐたものは、今のところみんなお米の代にかはつてしまつたんだもの。」と妻がおもへば、
「女つてものはどうしてあゝ物質的なもんだらう。気持ちがせまくて、偏つてゐて、わがまゝで、自分のことより外は何も考へてゐないんだ、きさま達に男の心持ちなんてものが解るもんか。著物《きもの》が出来ないといふことを最大の条件にして、さも/\おれを意気地なしだと思つてゐやがる! 飛切りいゝ柄がぶら下つてゐたつてそれがどうなんだい! へんそれがおれへ当てつけの積りなんかい?」と夫は心に呟いた。
お互に黙りあつて歩いてるうちに、二人はいゝ加減くたびれて来た。それでもやう/\のことで目的の銀座に近づいた時には、そこに二人とも何かを期待するやうな心持ちであつた。
人の往き来は一層繁く、灯影《ほかげ》はまた一段と輝かしく、暗いけれど高い空にほんのりと余光をあげてゐた。風を切つて行きちがふ電車の煽《あお》りを喰つて、街樹の柳がすうと枝を靡かせて行く。
活々《いきいき》とした雑閙《ざっとう》と、華々しい灯の飾りの中にその姿を現はせば現はすほど、妻は自分の体から光りなり色彩なりを吸ひ取られて行くやうなのを確かに覚えた。自惚れはいつか影もなく去り、自ら足り、自ら満足を感じた心も姿を隠して、たゞぐわん/\するやうな物の響きに、散歩を楽しまうとした心もめちやくちやに掻き乱されてしまつた。そしてたゞなんともいへぬ不思議なものゝ圧迫を感じるばかりであつた。
知らず/\台湾喫茶店の前まで来た時、夫は一寸たちどまつて、ぐん/\行きすぎやうとする妻に声を掛けた。
「おい、寄らないのかい?」
妻は夫から眼を外らして黙つてゐた。そして夫が咎めるやうな顔をして傍《そば》に寄つて来た時、
「お金もないのに止しませうよ。」と言つた。
しかしそれは今の今まで思ひも寄らなかつたことで、そこの前を通り過ぎる時軽く投げた一と目に、美しい女下駄をちらと入口に見てから、急に入るのが厭になつたのであつた。どのやうに綺麗な立派な女がそこにゐようかと、それが怖しかつたのだ。
最後の希望《のぞみ》は切れた。それをいくらか楽しみにもし、そこでなるべく気持ちを直して帰る積りでもあつたのだけれど、今言ひ切つた言葉は丁度戦ひを挑んだやうなものであつた。二人の心の保ち合ひは破れた。妻は決して夫の顔を振り向きはしなかつたけれど、その眼がちらと光つたのを感じ、勝手にしろと言つたやうに足早に歩き出したのを知つた。
いよ/\、休むことが出来ないのを知つた足は、非常な速力をもつて疲労《つかれ》を訴へて来た。何物をも見、何物をも考へずに二人はたゞ歩いた。
やがて、
「帰らう。」
「えゝ。」
かう簡単な会話が交はされた。
夫はつか/\と赤い灯の柱の下につき進んで行つた。
間もなく、夫は前から、妻は後から、お互にお互を心のうちに非難しあひながら電車に乗つた。
二人とも此上もない不快な心持ちを、神の罰に受けながら。
底本:「水野仙子 四篇」エディトリアルデザイン研究所
2000(平成12)年11月30日発行
初出:「中央文学」二巻九号
1914(大正3)年9月発行
※底本の凡例に「ルビは新仮名遣いとした」と書かれていましたので、ルビの拗促音は小書きしました。
入力:林 幸雄
校正:多羅尾伴内
2004年4月29日作成
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