なつて、弱り切つた虫の音が、歯※[#「齦」の「齒」に代えて「歯」、11−7]《はぐき》にしみるやうに啼いてるのが耳だつて来る。
 初秋《はつあき》の夜気が、しみ/″\と身うちに環《めぐ》つて、何となく心持ちが引緊り、さあ「これからだぞ――」といふやうな気がするにつけても、訳もなく、灯とそれから人の匂ひが懐しい。暗い空に向つて、遙かに響きを伝へて来る甲武線の電車の音を聞いてゐると、その中の人達や、或はそれの吐き出される明るい街々やが、ぱあつと眼に泛《うか》んで来る。帯の間に両手をさし込んで、そんなことをぼんやり意識しながら、夫は猶縁側に立ち尽してゐると、台所の用をすませて妻がはいつて来た。
「ね、何処に行きませう?」といつも機嫌のいゝ時に見せるあどけない顔をして、箪笥《たんす》の上から鏡台を下して電燈の下に据ゑた。手水《ちょうず》を使つたものとみえて、お湯に刺激された頸《くび》すぢや顔が冴え/″\と紅くなつてゐる。肌ぬぎになつた胸の左右に、二つの小さな丘のやうな乳が、白粉《おしろい》を塗つてゐる手先の運動につれて、伸びたりふくらんだりしてゐる。
「そんなにおしやれしなくたつていゝぢやない
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