しの袂《たもと》の先に継ぎの当つてるやうなものであることなどを何気なしに言はうとしたが、そんなことを言つて夫の心を刺激してはよくないと思つて止した。「あの人は今に必《きっ》と働くだらう。そしたらわたしの著物だつてきつと快く買つて下さる!」
 何も彼《か》も今はこれで満足であつた。夫がこれまで二人の生活を支へてゐた会社を止してしまつてから、もう三月にもなるのに、内心はともかくも表面は存外平気らしくみえるのが、時々烈しく心の中に非難されるのであつたが、今は十分夫の心持ちに理屈もつけられゝば、同情も出来、殊に、常にはあんまりよく腑に落ちてない会社を止した動機が、全く夫のいふ通りに男の意地をたてたもので、さうしなければならなかつたのだらうと理解も出来るし、明らかにそれが却《かえっ》て得意にも思はれるのであつた。
 久しく忘れてゐた身じまひのあとのすが/\しい気分が、軽い自惚《うぬぼ》れまでひき起して、帯や半襟やの色彩《いろどり》がいくらか複雑に粧はれたのを、鏡の中に満足さうに見た。
「これで一かどの別嬪《べっぴん》さんが出来上つたつていふところだね。」
「あら!」
「いや全くだよ。馬鹿に今夜は綺麗にみえるよ。」
 満更それがひやかしでもなさゝうに聞えたので、一寸すねようとしたのを妻は止してしまつたが、それも、夫の目には今なんにも比較するものがないからだといふことには気がつかなかつた。
「お待ち遠うさま、さあまゐりませう。」
「おい、おまへ錠をどこに置いたい?」と、兵児帯《へこおび》をぐる/\巻き直しながら、玄関に下駄を揃へてゐる妻に声をかけた。
「わたし、持ちましたよ。」
 雨戸を繰る音ががら/\と響いた。
「まあ暗い。」
 二人はやう/\外に出た。
 あゝ初秋《はつあき》の一夜! なんといふ新しい生々とした気分が二人に満ちてゐることだらう! 口には出さないがお互に同じ心持ちを感じあつて、人通りの少ない暗い道は手を握り合つて歩いた。
「随分久しぶりね。」と、道々妻は幾度か繰り返した。
 暗くなつたり明るくなつたりする停車場の電燈の下に、夫は妻の、妻は夫の晴々しい顔を見てゐた。肌寒いほど稍々《やや》強く、風は吹いては過ぎた。やがて、闇の中に眼を輝かしながら、生きものゝやうに電車が走つて来た。
 どや/\と乗り込んだ一群れの人に交つて二人は明るい車の中にその姿を置いた。久しく家に燻ぶつてゐたので、訳もなく向く人達の眼にも一寸|面伏《おもぶ》せなやうな気がして、妻は夫の指してくれた空席に急いで腰を下した。そしてその前の吊皮《つりかわ》に下つてゐる夫の袖の下からそろ/\とあたりを見廻した。
 まづ安心したことには、あまり気早過ぎはしなかつたかと内心気にしてゐたのであつたが、車内の人の半分近くも袷せを著《き》てゐたことであつた。それに味方を得たやうな落ちつきが出来て、つひ真向ひに腰かけてゐる女が、妙にぢろ/\見てゐるのを大膽に見返してやつた。女に女が対手《あいて》になる時には、無意識に自分を対手に比較するもので、まづ縹緻《きりょう》の好し悪し愛嬌の有無、著物《きもの》の品質を調べて、まだ得心がいかない時には、その柄合ひの見たてゞその人の趣味を判断したりする。でその女は、いやに人を蔑《さげす》んだやうに見る癖によつて反感を買つたばかりでなく、すべてに於いて弾ねかへすやうな軽い憎《にく》みを妻に感じさせた。けれども縹緻はよかつた。――それも俗な男に好かれさうな――と妻の心の呟きはつけ加へたけれども。身なりも、馬鹿にけば/\しくはあつたけれど立派であつた。いや敢てその女ばかりでなく、今夜のすべての女は、美しくあり立派であるやうな気がした。みんながみんな、真新しい柄合ひの著物を著て、心安げになんの屈託もなく振舞つてゐるやうに見える。それにつけても、これがわたしの精一つぱいのお扮《つく》りなんだと思ふと、妙に身窄《みすぼ》らしく自分の肩のあたりが眺められる。
 そつと夫の顔色を窺ふと、窓の外に走つて闇から闇にちら/\する街の灯にその眼は捕《とらわ》られてゐて、さつき暗い道の一つの軒燈の光りで見た時のやうな、自分にのみ心を傾けてゐるやうな、純一な顔ではなかつた。その瞳にはさま/″\な社会の色が反映してゐた。
 二人は萬世橋の停車場を出て、光りの海のやうな須田町の交叉点の方に紛れて行つた。
「乗る?」
「歩きませうよ。」
 二人は肩を並べるために、忙しく行き違ふ人を避《よ》けながら、片側の家並《やなみ》み[#「家並《やなみ》み」はママ]を銀座の方へと歩き出した。
「ねえ。」
「ん。」
「今電車の中で、わたしの直ぐ向ひに腰かけてた女があつたでせう?」
「うむ。」
「随分いやなやつね、傲慢な顔をして。」
「だけど、別嬪だつたねえ。」
 妻はちらりと夫の顔を見た。
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