はなぜか私の内部のものがそれを促して止まない。一度書いてまた灰にするとも、それではともかくその私の心の要求に從つて行かう。
この部屋がどういふ室であるかはあの壁に懸つた體温表が、無言ながら完全にそれを語つてゐる。大分熱は下つて來た、七度の赤い線をまん中にして、青い鉛筆の跡が、ちようど蒲公英《たんぽぽ》の葉の線のやうに延びて行く。親もなく、夫もなく、子もなく、たつた一人の兄弟より外にはなかつた身の、あまり劇しい生の執着とてはなかつたけれども、病氣がかうしてだんだん快くなつて見れば、やつぱり嬉しい。助かつたやうな氣がする。そしてその助かつたやうな氣のするところから、これまでにない命の貴さが感じられる。私はやつぱり生に執着がなかつたわけではなかつたのだらう。たゞあきらめの分子が、他の情實に纒《まと》はられた人よりも幾らか多かつたに過ぎないのであらう。私の鋏が切れ味よかつたわけではなく、私はたゞ切り易い布を持つてゐたに過ぎないのだ。ともあれ私は感謝する。そして私を癒したものゝ前に、私自身の生命を大切に哺《はぐく》んで行かう。
別に語る人とてはない田舍の病院の一室に、私はかくて寂しく滿足して
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