『なあんだ!』と、あくびまじりの聲が言つた。
『やつぱり死ねないものとみえるね。』と、惜しい事をしたといはぬばかりの調子の聲が言つた。
『だから僕が言つたぢやなあいか[#「なあいか」はママ]、大丈夫死にやしないよつて、眞面目に考へるだけ馬鹿な話さ!』
『しかし、今はやれなかつたかも知れないが、この次のでやるかも知れないよ。』
『なあに、大丈夫、それ[#「それ」は底本では「それれ」]よりも今頃は家に歸つて、おゝ寒かつたなんて言つて燒芋でも喰つてるかも知れないよ!』
 そして人々は哄笑した。

 私は昨夜熟睡が出來なかつた。どうやら深い眠に落ちかけた時でも、轟と地を這ふ汽車の響が耳に入ると、おぼろな意識の底からある懸念が頭を擡げた。さうして私は幾度か寢返を打つた。明けがたになつて漸く、短くはあるが眞の眠を眠つたやうであつた。
 今朝になつて、私はほのかな温味の中に、ぽつかりと目を覺した。そして、「たうとう無事に濟んだ!」といふ明な意識は私を非常に幸福にした。私は重荷でも下したやうに身の輕くなつてゐるのを覺えた。部屋の中はまるで紙をはがしたやうに明るく白くなつて、いつの間にか掃除女の入れて行つた火鉢の火がまつ赤に燃え、ある部分は早くもその表面を灰にしながら、部屋の中を暖めてゐた。鐵瓶の湯は煮えたち、かはいらしいおちよぼ口から揚げる湯氣に陽炎がたつてゐる。
 私はつめたい疊を踏んでいきなり窓を開けた。――おゝ、なんといふそれは美しい眺であつたらう! 雪はすつかりあがつてゐた。さうしてあらゆる地と、丘と、草木と、建物とが、この上もなく清く洒した布で蔽はれたやうに、さうして何もかもが清められたやうに、靜に息づいてゐる。その見るかぎりの白さには全く思ひもかけぬ青空が、驚異そのものゝやうに瞬き、さうしてどこからともなくさす朝の日の輝が、やんわりとそれらを包んでゐる。何といふ今朝の、このすべてが清々と美しく輝いてゐることであらう!
 さうだ、それにちがひない、それは昨夜のくるしみによつて贏《か》ち得た朝であるから……でなければ、それは單に雪のあしたの眺に過ぎないであらう……私は奇蹟を見たのだ。


底本:「叢書『青踏』の女たち 第10巻『水野仙子集』」不二出版
   1986(昭和61)年4月25日復刻版第1刷発行
底本の親本:「水野仙子集」叢文閣
   1920(大正9)年5月3
前へ 次へ
全11ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
水野 仙子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング