何となくこの手帳が氣に入つてしまつた。そしてすぐに萬年筆の鞘をぬいて、そのオレンヂ色のおもてに「響」と題を打つたのであつた。けれどもそれは、別にどうといふ意味を持たせたつもりではなかつた。たゞその時、左を下にして横つてゐた私の心臓の音が、とつとつとつとしづかに枕に響いてゐたのを、ふとそのまゝ紙の表に印象させたまでの事であつた。
けれども、私は別にこれぞといつてこゝに書かなければならぬ事を持つてゐるのではない。毎日毎日、或は瞬間に、或はかなり長い間連續して、さまざまな思は私の心を過ぎて行く。それらが或は歌といはれるものゝ形を取る事もあれば、詩ともいふべきリズムを持つた獨語《ひとりごと》である場合もある。けれども敢てそれらを書きとめて置いて私の何になるだらう? やがては消えてゆくべき命であり、姿であるものを……私の心臓の響がはたと絶えた時、最もよくそのすべての意味を語るものは、何も書かずにのこされたこの白紙であるであらうよ! すべてを書き遺すにしてはあまりにこの思が多過ぎる……
さらば愛も、憎も、惱も、苦もよ、今暫くが間であらうほどに、私の胸が張り裂けるまでは、お前達の棲所《すみか》と
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