ある……)

        二

[#天から2字下げ]あたゝかうわれを見おきて雪風のあとさびしらに去《い》にし君はも。
 寂しさはいつもあの人の後姿に殘る。そのマントの肩といはず裾といはずに、雪は亂れ亂れてあとを追うたであらう。見送る事も叶はなくて、いつぱいに開いた瞳を硝子戸に置いてゐると、雪は狂ふやうに降りしきつてゐたつけ、その日は早くも先へ先へと流れていつてしまつた。
 今夜は、いつもあの人が見えて歸つた後暫くの、寂しいおちつきの氣持のうちにゐる。病氣以來の並並ならぬいたはりを思ふにつけ、我儘ばかりしてゐた昔の苦しい記臆をのみのこして、何の酬ゆるところもなく離れて行かなければならぬのが濟まなく佗しい。けれども考へても考へてもすべては考へきれない、それは考へ盡したも同じ事なのだ。にも拘らず私はやつぱりいろんな事を考へてゐる。それはやがて來る嚴なるものゝ前に、いかに造作なく崩れ去るものであらうとも、いろいろな色に塗られた積木を、弄ぶとは知らずに幼い建築を企てる子供のやうに、私はやつぱりとかくこの胸に不思議なやうな樓閣を築いたりしてゐる。寂しければ寂しいやうに、悲しければ悲しい姿に……
 この頃ふとある考が私の心を捉へて放さない。それも不思議な樓閣に棲むやうなものゝ一つであるかも知れないけれど、ともかく私の心はその考に促されて止まない故に、私はしづかに百合さんにそれを書いて置かうと思ふ。

 百合さん。
 この手紙が他日私の亡いあとあなたのお目に觸れる事があつても、どうか死者に對した時にありがちのあらたまつた心持や、何となく感じるものである義務の念やに支配されずに、どうか自然な心持で、まだ生きて丈夫でゐる私のたよりの一つだと思つて讀んで下さい。それでないと却つて、私があなたにお話しようとする心持が、その自然さを失つて、この手紙の命を失つてしまふ事になりますから。
 そして百合さん、たとへこの手紙が書置の形式をなすとしても、敢て告別の言葉をこゝにくだくだしく書き遺しますまいね。それはたゞ後に殘つた人の情緒をそゝつて、徒なかなしみを湧きたゝせるに過ぎませんから。おわかれなら多分もつとそれの適當した場合にする事が出來ませう。多分恐らくもう一度はあなたにもお目にかゝれる事が出來ると思ひますから。よしやまた私の終が意外に早く突然に來て、あなたにも誰にもお目にかゝられなかつたとしても、私のつめたくなつた唇は、その時却つて最もたしかに左樣ならを語るでせう、なぜならば、それが一番最後のほんとの左樣ならですから。私はあの二度目の咯血以來といふもの、毎日世と人とに向つて一つづつ左樣ならを繰り返して來ました。今も毎日心から眞面目にそれを繰り返してゐます。
 私の用意はもう既に成つてゐます。どうしてもかうしも[#「かうしも」はママ]避けられない爲に、せめては慌てないまでに整へなければならぬその用意が。けれどもあの捕捉すべからざるもの――死の姿――が、もはや、私を苦しめはしないけれども、絶えず私の身邊に漂つて、一所懸命にその姿をはつきり掴まうとみつめてゐる私をなやまし疲らせてゐます。私の眼は、もう地には向いてゐません、たゞひたすらにあの、覘かうとすれば隱れ、掴まうとすれば消えて行く姿に向つて、いつぱいに目を見ひらいてゐます。もうそこより外に私の目の向けどころはないのです。そして一歩一歩、それに向つて近づいて行くに從つて、不思議にも心の苦痛やなやみは一歩づつ後もどりをしてゆきます。依然として私を招ぐ姿は暗くおぼろではあるけれども、私の心は決してそれを厭ふどころか、あるなつかしみをすら持つて迎へ、また手をのべてゐます。美しい幻影をもつて冷い現實の墓場に葬る事の悲しさに泣いた心は、もう古い脱殻のやうに、私の心の片隅に押し寄せられて、ひたすらに眞實を見ようとする願に胸を[#「願に胸を」はママ]抱いてゐます、極めて柔順に、極めて謙遜に。そしてその眞實は、今の私に取つてはどうしても、間もなく私のために來る死と結び合つて離す事が出來なくなつてゐます。それ故今私がどんなに澤山の涙を流してゐようとも、もはやその涙は私の悲や苦をあらはすものではなくなつてゐます。これは名づける事の出來ぬ、自然な、たゞ靜に流れる涙です。
 けれども百合さん、かうしてもう自分自身のために泣く必要のなくなつた私も、遺されたものゝ悲哀を思ふ時には、まだまだやつぱりこの二つの眼に堪へ切れぬ熱い涙がこぼれます。それは月日と共に薄れゆき、いつかは忘れ去られるものではあつても、死んで逝くといふ事が私一人の出來事にとゞまらずに、多少に拘らず、或は一時にもせよ、ある打撃を人の上にのこしてゆかなければならないといふ事は、私に取つてはほんとに辛く苦しい事です。

        三

 死別の哀苦は、逝くものより
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