老中の眼鏡
佐々木味津三
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)ひと揺《ゆ》れ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)突然|慌《あわ》ただしい
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符疑問符、1−8−78]
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一
ゆらりとひと揺《ゆ》れ大きく灯《ほ》ざしが揺れたかと見るまに、突然パッと灯《あか》りが消えた。奇怪な消え方である。
「……?」
対馬守《つしまのかみ》は、咄嗟《とっさ》にキッとなって居住いを直すと、書院のうちの隅《すみ》から隅へ眼を放ち乍《なが》ら、静かに闇《やみ》の中の気配を窺《うかが》った。
――オランダ公使から贈られた短銃《たんづつ》も、愛用の助広《すけひろ》もすぐと手の届く座右《ざう》にあったが、取ろうとしなかった。刺客《しかく》だったら、とうに覚悟がついているのである。
だが音はない。
呼吸のはずみも殺気の取《うご》きも、窺い寄っているらしい人の気配も何一つきこえなかった。
しかし油断はしなかった。――少くも覚悟しておかねばならない敵は三つあるのだ。自分が井伊大老の開港政策を是認し踏襲《とうしゅう》しようとしているために、国賊と罵《ののし》り、神州を穢《けが》す売国奴と憤《いきどお》って、折あらばとひそかに狙っている攘夷《じょうい》派の志士達は勿論《もちろん》その第一の敵である。開港政策を是認し踏襲しようとしており乍ら倒れかかった江戸大公儀を今一度支え直さんために、不可能と知りつつ攘夷の実行を約して、和宮《かずのみや》の御降嫁《ごこうか》を願い奉った自分の公武合体の苦肉の策を憤激している尊王派の面々も、無論忘れてならぬ第二の敵だった。第三は頻々として起る外人襲撃を憤って、先日自分が声明したあの言質に対する敵だった。
「公使館を焼き払い、外人を害《あや》めて、国難を招くがごとき浪藉《ろうぜき》を働くとは何ごとかっ。幕政に不満があらばこの安藤を斬れっ。この対馬を屠《ほふ》れっ。それにてもなお憤りが納まらずば将軍家を弑《しい》し奉ればよいのじゃ。さるを故なき感情に激して、国家を危《あや》うきに導くごとき妄動《もうどう》するとは何事かっ。閣老安藤対馬守、かように申したと天下に声明せい」
そう言って言明した以上は、激徒が必ずや機を狙っているに違いないのだ。――刺客としたら言うまでもなくそのいずれかが忍び入ったに相違ないのである。
対馬守は端然として正座したまま、潔よい最期《さいご》を待つかのように、じいっと今一度闇になった書院の中の気配を窺った。
だがやはり音はない。
「誰《た》そあるか」
失望したような、ほっとなったような気持で対馬守は、短銃と一緒にオランダ公使が贈ったギヤマン玉の眼鏡をかけ直すと、静かに呼んで言った。
「道弥《みちや》はおらぬか。灯りが消えたぞ」
「はっ。只今持参致しまするところで厶《ござ》ります」
応じて時を移さずに新らしい短檠《たんけい》を捧げ持ち乍ら、いんぎんにそこへ姿を見せたのは、お気に入りの近侍《きんじ》道弥ならで、茶坊主の大無《たいむ》である。
「あれは、道弥はおらぬと見えるな。もう何刻頃であろう喃《のう》?」
「只今四ツを打ちまして厶ります」
「もうそのような夜更《よふ》けか。不思議な消え方を致しおった。よく調べてみい」
「……?」
「首をひねっておるが、何としてじゃ」
「ちといぶかしゅう厶ります。油も糸芯も充分厶りますのに――」
「喃!……充分あるのに消えると申すは不思議よ喃。もし滅火の術を用いたと致さば――」
「忍びの術に達した者めの仕業《しわざ》で厶ります」
「そうかも知れぬ。伊賀流のうちにあった筈《はず》じゃ。そう致すと少し――」
「気味のわるいことで厶ります。御油断はなりませぬぞ」
「…………」
「およろしくば?」
「何じゃ」
「さそくに宿居《とのい》の方々へ御注進致しまして、取急ぎ御警固の数《すう》を増やすよう申し伝えまするで厶りますゆえ、殿、御意《ぎょい》は?」
「…………」
「いかがで厶ります。およろしくば?」
「騒ぐまい。行けい」
「でも――」
「国政多難の昨今、廟堂《びょうどう》に立つものにその位の敵あるは当り前じゃ。行けい」
秋霜烈日《しゅうそうれつじつ》とした声だった。
斥《しりぞ》けて対馬守は眼鏡をかけ直すと、静かに再び書見に向った。――読みかけていた一書は蕃書取調所《ばんしょとりしらべじょ》に命じて訳述させた海外事情通覧である。
しかしその半頁までも読まない時だった。じいじいと怪しく灯ざしが鳴いたかと見るまに、またパッと灯りが消えた。同時に対馬守は再びきっとなって居住いを直すと、騒がずに気配を窺った。
だがやはり音はない。息遣いも剣気も、刺客の迫って来たらしい気配は何一つきこえないのである。
「大無! 大無! また消えおったぞ」
「はっ。只今! 只今! 只今新らしいお灯り持ちまするで厶ります。――重ね重ね奇態で厶りまするな」
「ちと腑《ふ》におちぬ。油壷予に見せい」
覗《のぞ》いた対馬守の面《おもて》は、まもなく明るい笑顔に変った。消えた理由も、燃えない仔細も忽《たちま》ちすべての謎が解けたからである。
「粗忽者《そこつもの》共よ喃。みい。油ではないまるで水じゃ。納戸《なんど》の者共が粗相《そそう》致して水を差したであろう。取り替えさせい」
「いかさま、油と水とを間違えでもしたげに厶ります。不調法、恐れ入りました。すぐさま取替えまするで厶ります」
「しかし乍ら――」
「はっ」
「叱るでないぞ。いずれも近頃は気が張り切っている様子じゃ。僅かな粗相をも深く耻《は》じて割腹する者が出ぬとも限らぬからな。よいか。決して強く咎《とが》めるでないぞ」
「はっ。心得まして厶ります。御諚《ごじょう》伝えましたらいずれも感泣《かんきゅう》致しますることで厶りましょう。取替えまする間、おろうそくを持ちまするで厶ります」
「うむ……」
大きくうむと言い乍ら対馬守は、突然何か胸のうちがすうと開けたように感じて、知らぬまにじわりと雫《しずく》が目がしらに湧き上った。
安心! ――いや安心ではない。不断に武装をつづけて、多端な政務に張り切っていた心が、ふと家臣を労《いたわ》ってやったことから、計らずも人の心に立ちかえって思わぬまに湧き上った涙だったに違いないのである。
銀台に輝かしく輝いているおろうそくが、そのまに文机《ふづくえ》の左右に並べられた。
静かに端座して再び書見に向おうとしたとき、――不意だった。事なし、と思われたお廊下先に、突然|慌《あわ》ただしい足音が伝わると、油を取替えにいった茶坊主大無がうろたえ乍らそこに膝《ひざ》を折って言った。
「御油断なりませぬぞ! 殿! ゆめ御油断はなりませぬぞ!」
「来おったか」
「はっ。怪しの影をお庭先で認めました由《よし》にて宿居《とのい》の方々只今追うて参りまして厶ります!」
さっと立ち上ると、だがお広縁先まで出ていったその足取りは実に静かだった。
同時に庭先の向うで、バタバタと駈け違う足音が伝わった。と思われた刹那《せつな》――。
「お見のがし下されませ! お許しなされませ! 後生《ごしょう》で厶ります。お見のがし下されませ!」
必死に叫んだ声は女! ――まさしく女の声である。
対馬守の身体は、思わず御縁端《ごえんばた》から暗い庭先へ泳ぎ出した。
同時のようにそこへ引っ立てられて来た姿は、女ばかりだと思われたのに、若侍《わかざむらい》らしい者も一緒の二人だった。
「御、御座ります。ここに御灯りが厶ります」
「……※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」
差し出した紙燭《ししょく》の光りでちらりとその二人を見眺めた対馬守の声は、おどろきと意外に躍《おど》って飛んだ。
「よっ。そち達は、その方共は、道弥とお登代じゃな!」
見られまいとして懸命に面を伏せていた二人は、まさしく侍女のお登代と、そうして誰よりも信任の厚かった近侍《きんじ》の道弥だったのである。
不義!
いや恋! ――この頃中《ごろじゅう》から、ちらりほらりと入れるともなく耳に入れている二人のその恋の噂を思い出して、若く美しい者同士の当然な成行に、対馬守の口辺《こうへん》には思わずもふいっと心よい微笑がほころびた。
だがそれは刹那の微笑だった。情に負けずに、不断に張り切っていなければならぬ為政者《いせいしゃ》としての冷厳な心を取り返して、荒々しく叱りつけた。
「不埒者《ふらちもの》たちめがっ。引っ立てい!」
「いえあの、そのような弄《なぐさ》み心からでは厶りませぬ! 二人とも、……二人ともに……」
必死に道弥が言いわけしようとしたのを、
「聞きとうない! 言いわけ聞く耳も持たぬ! みなの者をみい! 夜の目も眠らず予の身を思うておるのに、呑気《のんき》らしゅう不義の戯《たわむ》れに遊びほうけておるとは何のことか! 見苦しい姿見とうもない! 早々に両名共追放せい!」
ややもすれば湧き立とうとする人の情と人の心を、荒々しい言葉で抑《おさ》えつけるように手きびしく叱っておくと、傍《かたわ》らを顧《かえり》みて対馬守はふいっと言った。
「そろそろその時刻じゃ。微行《しのび》の用意せい」
――九重《ここのえ》の筑紫の真綿軽く入れた風よけの目深頭巾《まぶかずきん》にすっぽり面《おもて》をつつむと、やがて対馬守は何ごともなかったように、静かな深夜の街へ出ていった。
二
警囲の従者はたった二人。
しかし、居捕《いど》りと小太刀の技に練り鍛えられた二人だった。
――危険な身であるのを知っているのに、こうした対馬守の微行は雨でない限り毎夜の例なのである。
赤坂御門を抜けると三つの影は、四ツを廻った冬の深夜の闇を縫《ぬ》って、風の冷たい濠《ほり》ばた沿いを四谷見附の方へ曲っていった。しかも探して歩いているものは、まさしく屋台店なのである。
「やはり今宵も同じところに出ておるぞ。気取《けど》られぬように致せよ」
見附前の通りに、夜なきそばと出ているわびしい灯り行灯《あんどん》を見つけると、三人の足は忍びやかに近づいていった。近づいて這入《はい》りでもするかと思われたのに、三人はそこの小蔭《こかげ》に佇《たたず》むと、遠くから客の在否を窺った。
しかし居ない。
刻限も丁度《ちょうど》頃《ころ》なら、場所も目抜の場所であるのに、客の姿はひとりも見えないのである。暫《しばら》く佇んで見守っていたが、屋台のあるじが夜寒《よさむ》の不景気を歎くように、悲しく細ぼそと夜啼《よな》きそばの叫び声を呼びつづけているばかりで、ついにひとりも客は這入らなかった。
「館《たて》!」
「はっ」
「ゆうべはかしこに何人おったか存じておるか」
「おりまする。たしかに両名の姿を見かけました」
「その前はどうであった」
「三人で厶《ござ》りました」
「夜ごとに目立って客足が減るよう喃《のう》。――歎かわしいことじゃ。考えねばならぬ。――参ろうぞ」
忍びやかに、そうして重たげな足どりだった。
牛込御門の前通りにやはり一軒屋台の灯が見える。
三つの影は同じように物蔭へ立ち止まって、遠くから客の容子《ようす》を窺った。
「どうじゃ。いるか」
「はっ。おりまするが――」
「何人じゃ」
「たったひとりで厶ります」
「僅かに喃。酒はどうか。用いておるか」
「おりませぬ。寒げにしょんぼりとして、うどんだけ食している容子に厶ります」
「やはりここも次第に寂《さび》れが見ゆるな。ひと月前あたりは、毎晩のように七八人もの客が混み合っていたようじゃ。のう。山村。そうであったな」
「はっ。御意に厶ります。年前は大分酒もはずんで歌なぞも唄うておりましたが、明けてからこちら、めっきり寂れがひどうなったように厶ります。ゆうべもやはりひとりきりで厶りました」
「そう喃。
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