るには第一に果断、第二にも果断、終始果断を以て貫きたいものじゃ。命は惜しみたくないものよ喃」
「…………」
「泣いておるな。泣くにはまだ早かろうぞ。それにつけても大老は、井伊殿は、立派な御最期だった。よかれあしかれ国策をひっ提《さげ》て、政道の一線に立つものはああいう最期を遂げたいものじゃ。羨《うら》やましい事よ喃」
「申、申しようも厶りませぬ……」
「泣くでない。そち程の男が何のことぞ。――天の川が澄んでおるな。風も冷とうなった。少し急ぐか」
 足を早めてお茶の水の土手にさしかかろうとしたとき、突如バラバラと三つ四つ、黒い影が殺到して来たかと見えるや、行手をさえ切ってきびしく言った。
「まてっ。何者じゃっ」
「まてとは何のことじゃ!高貴のお方で厶るぞ。控えさっしゃい!」
 叱って、館、山村の従者両名がさっと身楯《みだて》になって身構えたのを、
「騒ぐでない」
 しいんと身の引きしまるような対馬守の声だった。
「姿の容子、浪士取締り見廻り隊の者共であろうな」
「……?」
「のう、そうであろうな。予は安藤じゃ。対馬じゃ」
「あっ。左様で厶りましたか! それとも存ぜず不調法恐れ入りまして厶ります。薩州浪士取締り早瀬助三郎組下の五名に厶ります」
「早瀬が組下とあらば腕利きの者共よな。夜中《やちゅう》役目御苦労じゃ。充分に警備致せよ」
「御念までも厶りませぬ。御老中様もお気をつけ遊ばしますよう――」
 人形のように固くなって、勤王浪土取締りの隊士達が見送っているのを、対馬守の足どりは実に静かだった。聖堂裏から昌平橋を渡って、筋違《すじかい》御門を抜けた土手沿いに、求める屋台の灯がまた六つ見えた。闇に咲く淫靡《いんび》な女達が、不思議な繁昌を見せているあの柳原土手である、それゆえにこそ、くぐり屋台の六つ七つは当り前だった。
 しかし客足は反対にここも寂れに寂れて、六軒に僅か三名きりである。
 対馬守は沈痛にもう押し黙ったままだった。――これ以上検分する必要はない。盛り場の柳原にしてこれだったら、他は推《お》して知るべしなのだ。目撃したとていたずらに心が沈むばかりである。
 足を早めて屋敷に帰りついたのは、八ツをすぎた深夜だった。
 寝もやらず待ちうけていた老職多井格之進が、逸早《いちはや》く気配を知って、寒げに老いた姿を見せ乍ら手をつくと、愁い顔の主君をじいっと仰ぎ見守り乍ら、丹田《たんでん》に力の潜んだ声で言った。
「さぞかし御疲れに厶りましょう。御無事の御帰館、何よりに御座ります。今宵の容子は?」
「ききたいか」
「殿の御心労は手前の心労、ききとうのうて何と致しましょうぞ。どのような模様で厶ります」
「言いようはない。火の消えたような寂れ方じゃ」
「ではやはり――」
「そうぞ。もはや迷うてはおられまい。断乎として決断を急ぐばかりじゃ」
「…………」
「不服か。黙っているのは不服じゃと申すか」
「いえ不服では厶りませぬ。殿が御深慮を持ちまして、それ以外に途《みち》はないと仰せられますならば、いかような御決断遊ばしましょうと、格之進何の不服も厶りませぬが――」
「不服はないがどうしたと申すのじゃ」
「手前愚考致しまするに屋台店の夜毎に寂れますのは、必ずしも町民共の懐中衰微の徴《しる》しとばかりは思われませぬ。一つは志士召捕り、浪土取締りなぞと血腥《ちなまぐ》さい殺傷沙汰《さっしょうざた》がつづきますゆえ、それを脅《おび》えての事かとも思われますので厶ります」
「一理ある。だがそちも常人よ喃。今の言葉は誰しも申すことじゃ。予は左様に思いとうない。も少し世の底の流れを観たいのじゃ。よしや殺傷沙汰が頻発致そうと、町民共の懐中が豊ならば自《おのず》と活気が漲《みなぎ》る筈じゃ。屋台店はそれら町民共のうちでも一番下積の者共の集るところじゃ。集る筈のそれら屋台に寂れの見えるは下積の者共に活気のない証拠じゃ。国政を預る身としてこの安藤対馬は、第一にそれら下積の懐中を考えたい。活気のあるなしを考えて行きたい。民《たみ》は依《よ》らしむべし、知らしむべからず、貧しい者には攘夷もなにも馬の耳に念仏であろうぞ。小判、小粒、鳥目《ちょうもく》、いかような世になろうと懐中が豊であらばつねにあの者共は楽しいのじゃ。なれども悲しいかな国は今、その小判に欠けておる。これを救うは異人共との交易があるのみじゃ。交易致さば国に小判が流れ入るは必定《ひつじょう》、小判が流れ入らば水じゃ。低きを潤《うるお》す水じゃ。下積の者共にも自と潤いが参ろうわ。ましてやポルトガル国はもう三年来、われらにその交易を求めてじゃ。海外事情通覧にも書いてある。ポルトガル国はオランダ、メリケン国に優るとも劣らぬ繁昌の国小判の国と詳《くわ》しく書いてじゃ。対馬は常に只、貧しい者達の懐中を思うてやりたい
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