い、せめて髪の毛でも切って持っていってやりたいが、のそのそ出ていったら、まだちっと険呑《けんのん》じゃ。ともかく黒谷《くろだに》の巣へ引きあげよう」
 先へ立って、河原伝いに歩きかけたその神代が、不意にあっと声をあげ乍らつんのめった。
「しまった! そういうおれもやられたぞ」
「隊長が! ――ど、ど、どこです! どの辺なんです!」
「足だ。左がしびれてずきずき痛い! しらべてみてくれ!」
 夢中で知らずにいたが、屋根から逃げるときにでも一発うけたとみえて、左の踵《かかと》からたらたらと血を噴いていたのである。
 しかし、手当するひまもなかった。
 静まりかえっていた街のかなたこなたが、突然、そのときまた、思い出したようにざわざわとざわめき立ったかとみるまに異様な人声が湧きあがった。
 と思うまもなく、ちらちらと、消えてはゆれて、無数の提灯《ちょうちん》の灯が、五六人ずつ塊《かたま》った人影に守られ乍ら、岸のあちらこちらに浮きあがった。
 京都守備隊の応援をえて、大々的に捜索を初めたらしいのである。
「危ない! 肩をかせ! このあん梅ではおそらく全市に手が廻ったぞ。早くにげろっ」
「大丈夫でござりまするか!」
「痛いが、逃げられるところまで逃げてゆこう。そっちへ廻れっ」
 苦痛をこらえて神代は、ふたりの肩につかまり乍ら、這《は》うように河原を北へのぼった。
 二条河原から、向う岸へのぼれば、さしあたりかくれるところが二ヵ所ある。悲田の非人小屋として名高いその小屋と、薩摩《さつま》屋敷の二ヵ所だった。無論、薩摩屋敷へかくれることが出来たら、金城鉄壁だったが、つねに百五十人から二百人近い非人が密集していると伝えられている悲田のその小屋へ駈けこんでも、当座、身をかくすには屈強の場所だった。
「岸をしらべろっ。灯はみえんか!」
「…………」
「どうだ。だれか張っていそうか!」
「――いえ、大丈夫、いないようです」
「よしっ、あがれっ」
 いないと思ったのに、灯を消して、じっとすくんでいたのである。ぬっと顔を出した三人へ、
「誰じゃっ」
 するどい誰何《すいか》の声がふりかかった。――しかし、みなまで言わせなかった。富田も小次郎も、斬りたくてうずうずしていたのだ。
 スパリと、左右から青い光りが割りつけた。
 それがいけなかった。
 ひとりと思ったのに、もうひとりすくんでいたのである。刹那《せつな》に、バタバタとその影が走り出すと走り乍らけたたましく呼び子を吹き鳴らした。
 同時に、街のかなたこなたから、羽音のような足音が近づいた。
「小屋へ飛びこめっ。あの左手の黒い建物が、非人小屋じゃ! あれへかくれろっ」
 キリを揉《も》むような足の苦痛をこらえて、神代は、ふたりをせき立て乍ら、まっしぐらに非人小屋の中へ駈けこんだ。
 しかし、どうしたことかその小屋は、がらあきだった。いつもは二百人近い非人がたかっているというのに、人影はおろか、灯影《ほかげ》一つみえないのである。
 そのまにも、捜索隊の足音は、ちらちらと提灯の光りを闇のかなたにちりばめて、呼び子の音を求め乍ら、バタバタと駈け近づいた。
「生憎《あいにく》だな! 薩摩屋敷まではとうてい逃げられまい。どこかにかくれるうちはないか!」
 焦《あせ》って、見探していた三人の目は、はからずも道向うの一軒の木戸へ止まった。ここへ這入れ、と言わぬばかりにその木戸がぽっかりと口をあけていたのである。
 なにをする家《うち》か、誰の住いか、見さだめるひまもなかった。脱兎《だっと》のように三人は、小屋から飛び出して、その木戸の中へ駈けこんだ。
 奥まった小座敷らしいところから、ちかりと灯が洩《も》れた。――三人は夢中だった。灯を追う虫のようにその灯を追って、まっしぐらに飛びこんだ。
 しかし、同時に、先ず小次郎がたちすくんだ。金丸も立ちすくんだ。あとから駈けこんだ直人も、はっとなって立ちすくんだ。
 まさしく誰かの妾宅とみえて、その灯の下には、今、お湯からあがったらしい仇《あだ》っぽい女が、うすい長襦袢《ながじゅばん》をいち枚引っかけたままで、すらりと片膝を立て乍ら、せっせとお化粧をしていたのである。
 ふり向くと一緒に、険《けん》のある女の目が、ぐっと三人をにらみつけた。――咄嗟に、小次郎が、バッタのように手をすり合わせて言った。
「追われているんです! かくまっておくんなさい」
 いいもわるいもなかった。構わずに座敷の中へおどりあがって、あちらこちら探していたが、お勝手につづいた暗い土間に、うち井戸の縄つるべがさがっていたのをみつけると争うように金丸と飛んでいって、左右の縄へつかまり乍らするすると井戸の中へ身を忍ばせた。
 あとからあがって、直人も、まごまごし乍ら探していたがほかにもう身をひそませる場所もなかった。
 只一つ目についたのは、隣りの部屋の屏風《びょうぶ》の向うの寝床だった。
「この辺で消えたぞ」
「この家が臭い!」
「這入れっ、這入れっ」
 表の声は、今にも乱入して来そうな気配なのだ。
 直人は、せき立てられたように、隣りの部屋へ駈けこんだ。――しかし、同時に、われ知らず足がすくんだ。
 寝床は寝床だったが、ふっくらとしたその夜具の中には、旦那のおいで、お待ちかね、と言わぬばかりに、仲よく二つの枕がのぞいていたのである。
 ためらい乍ら、まごまごしているのを、突然、女がクスリと笑ったかと思うと、押しこむようにして言った。
「しょうのない人たちだ。二度とこんな厄介かけちゃいけませんよ。――早くお寝なさいまし」
 意外なほどにもなまめいた声で言って、咄嗟に気がついたものか、座敷に点々とおちている血の雫《しずく》の上へ、パッパッと一杯に粉白粉《こなおしろい》をふりかけておくと、ぺったり長襦袢のまま直人の枕元へ座って、さもさもじれったそうに、白い二の腕を髪へやった。
 間髪《かんぱつ》の違いだった。
 ドヤドヤと捜索隊の一群がなだれこんで来ると、口々に罵《ののし》った。
「来たろう!」
「三人じゃ!」
「かくしたか!」
「家探しするぞ!」
 声の下から、ちらりとけわしい目が光ったかと思うと、隊長らしいひとりがずかずかとおどりあがって、寝床の中の黒い月代《さかやき》をにらめ乍ら女にあびせた。
「こいつは誰じゃ!」
「…………」
「返事をせい! 黙っていたら引っ剥《ぱ》ぐぞ」
 手をかけて剥がそうとしたのを、女がおちついていたのである。黙って、その手を軽くはねのけると、うっすらと目で笑って、この姿一つでもお分りでしょう、と言うように、なまめかしく立膝を直人の顔のところへすりよせ乍ら言った。
「はしたない。旦那は疲れてぐっすり寝こんだところなんですよ。もっとあてられたいんですかえ」
「馬鹿っ」
 叩《たた》きつけるように、男が怒鳴った。
 馬鹿というより言いようがなかったに違いないのである。
「馬、馬鹿なやつめがっ、いいかげんにせい!」
 まき散らした白粉も、女とは不釣合な五分月代も、疑えばいくらでも不審があるのにいざと言えば寝床へも一緒に這入りかねまじい女のひとことに気を呑まれたとみえて、捜索隊の者たちは、ガヤガヤとなにかわめき乍ら、また表へ飛んでいった。
 同時に女の態度がガラリと変った。
「追っつけ旦那が来るんです。来たら今の奴等よりもっと面倒になるから、早く逃げて下さいまし」
「先生々々。もう大丈夫ですよ。足音も遠のきましたよ! このすきだ。早くお逃げなさいまし!」
 井戸から這い出して、小次郎たちふたりもせき立てた。
 しかし、直人は不思議なことにも動かなかった。
「気味のわるい。どうしたんですえ。まさか死んだんじゃあるまいね」
 怪しんで、のぞこうとした女が、
「まあ、いやらしい! なにをしているんです!」
 目を吊りあげて、パッと飛びのいた。
 鼻を刺す移り香を楽しみでもするように直人は、しっかりと女の枕に顔をよせて、にやにやと笑っていたのである。
「けがらわしい! 危ない思いをしてかくまってあげたのになんていやな真似《まね》をしているんです! そんなものほしければくれてやりますよ! 今に旦那が来るんです! とっとと出ておいきなさいまし!」
「すまんすまん! アハハ……。つい匂うたもんだからのう。ほかのところを盗まんで、しあわせじゃ。旦那によろしく……」
 けろりとし乍ら這い出ると、直人は、にやにや笑い乍ら出ていった。

         四

 うまく危険をのがれたのである。
 薩摩屋敷の塀に沿って、まっすぐ上岡崎《かみおかざき》へぬけると、この刺客たちが黒谷の巣と称していた光安院は、ほんのもう目と鼻だった。万一のことがあっても、あの寺の住職ならばと大楽源太郎の添書を貰って、根じろにしていた寺だった。
 何のために上洛《じょうらく》したのか、うすうすその住職は気がついているらしかったが、なにを言うにも今斬って、今逃げて来たばかりなのである。血のついたこの姿をまのあたりみられてはと、三人は盗むように境内《けいだい》を奥へ廻って、ねぐらに借りていた位牌堂の隣りの裏部屋へ、こっそり吸われていった。
「骨を折らしやがった。ここまで来ればもうこっちの城だ。丸公《たまこう》。まだいくらか残っているだろう。徳利をこっちへ貸してくれ」
 たぐりよせるように抱えこむと、立てつづけに小次郎は、ぐびぐびあおった。
「どうです。先生は?」
「…………」
「おやりになりませんか、まだたっぷり二合位はありますよ」
 しかし直人は、見向きもせずに、ぐったりと壁によりかかって、物憂《ものう》げに両膝をだきかかえ乍ら、じっと目をとじたままだった。その顔は、なにかを思いこんでいるというよりも、あらゆることに疲れ切っているという顔だった。
「どうしたんです。一体。――足の傷が痛むんですか」
「…………」
「傷が、その傷がお痛みになるんですか」
「決ってらあ」
「弱りましたね。手当をしたくも膏薬《こうやく》はなし、住職を起せば怪しまれるし、――酒があるんです。これで傷口を洗いましょうか」
「…………」
「よろしければ洗いますよ。もし膿《のう》を持つと厄介だからね。丸公《たまこう》、手伝え」
 おもちゃをでも、いじくり廻すように足を引き出して、こびりついている血と泥を、ごしごしとむしりとった。
 ぐいと、穴がのぞいた。
 その穴へ、ふたりは、代る代る酒をぶっかけた。――身を切るほども、しみ痛い筈なのに、しかし直人は、痛そうな顔もせずに、ぼんやりと壁へ身をもたせたままだった。
 なにかに、心をとられているらしいのである。――小次郎が、ひしゃげた鼻に、にやりと皺《しわ》をよせて言った。
「あれだね。――この忙しい最中に、先生も飛んだものを嗅いだもんさ。今の女のあの匂いを思い出したんでしょう」
「…………」
「旦那よりほかに寝かしもしないふとんの中へ入れたんだ。紙ひと重《え》の違いだが、因縁《いんねん》のつけようじゃ浮気をしたも同然なんだからね。そこを一本、おどしたら、あの女、物になるかも知れんです。酒のしみるのが分らないほど、思いに凝《こ》っていらっしゃるなら、ことのついでだ。今からひと押し、押しこんでいったらどうでごわすかよ」
「バカッ」
「違いましたか!」
「…………」
「どうもそのお顔では、ちっときな臭いんですがね。あのときの女の立膝が、ちらついているんじゃごわせんか」
 耳にも入れずに、直人は、目をつむっていたが、卒然として身を起すと、にったりとし乍ら、あざけるように言った。
「どうやらおれも、少々タガがゆるんだかな」
「なんのタガです」
「料簡《りょうけん》のタガさ。――大村益次郎、きっと死ななかったぞ」
 ギクリとなったように、小次郎たちも目を光らした。実はふたりも、それを気づかっていたのである。
「八人狙って八人ともに只の一刀で仕止めたおれじゃ。――のう、そうだろう」
 直人の顔が、描《か》き直したように青ざめた。
「しかし、九人目の大村にはふた太刀かかったんだ。そのふた太刀も、急所をはずれて膝
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