小声でひそひそとなにかささやいた。
 ぱっと首すじまで赤く染め乍ら、女は、顔をかくすようにして、下へおりていった。
 しかし平七は、なにが目に這入ろうとも、まるで感じのない男のように、ぐったりと両手の中へ頤をのせたまま、物も言わなかった。
 やがて、その頤のまえへ酒が運ばれた。
「さあ来たぞ。うんとやれ」
「…………」
「どうしたんじゃ。飲まんのかよ。――機嫌のわるい顔をしておるな。注《つ》いでやろうか」
 なみなみと新兵衛が注いだ盃《さかずき》を、だまって引き寄せると、だまって平七は口へ持っていった。
 別に機嫌がわるいわけではなかった。酒にさえも、平七の感情は、今もうこわばって了《しま》って、なんの反応もみせなかった。いや、反応がないというよりも、むしろそれは、表情を忘れて了ったという方が適切だった。急激に自分たちの世界を打《ぶ》ち壊《こわ》されて了って、よその国のよその軒先《のきさき》に、雨宿りしているようなこの六七年の生活が、それほども平七の心から、肉体から、弾力を奪いとって了ったのである。
「仕様のない奴じゃな。折角よろこばそうと思ってつれて来てやったのに、もっとうれしそうに
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