にいらっしゃる筈、嘘でありんしょう」
「嘘なもんか? 用を足して、来たついでだからと、観音さまにお詣りしていたら、ぽんと肩を叩いて、篠原の先生、という声がするじゃないかよ。ひょいとみたら田舎の兄さんさ。よいところじゃ、小芳も会いたがっておりますから、一緒にどうでござんすと誘ったが、ぜひにも今夜足さなくちゃならない用が馬道とかにあるから、今は行かれない、その代りあしたの朝早く行こうと言うからね。あすならなお幸い、小芳とふたりで森田座《こびきちょう》へ行くことになっているから、じゃ御一緒にあんたも芝居見はどうでござんすと言ったら大よろこびさ。朝早く起きぬけにこっちへやって来ると言ったよ」
「でも、不思議でござんすな。江戸へ来るなら来るとお便り位さきによこしておきそうなものなのに、忙しいお身体の兄さんがまた、何しに来たんでござんしょう」
「何の用だか知らないが、今朝、早立ちしたと言ってたよ。それから、こんなことも言ってたぜ。小芳め、さぞかし尻《しり》に敷くことでござんしょうな、とね。アハハ……」
「ま! いけすかない……。でも、兄さんが来るときいてすこうし胸がおちつきました。もういや! これから、わちきひとりにさせたらいやざんすよ。今のような怕いことがあるんだから……」
丸あんどんの灯影《ほかげ》の下を、小芳のむっちりとした湯上がりの肉体が、不気味な生き物かなんかのように、ぐいと梅甫の両腕の中にいだきよせられました。
二
「これはようこそ。毎度、ご贔屓《ひいき》さまにありがとうござんす。まもなく二番目が開きますゆえ、お早くどうぞ。ひとり殖《ふ》えた、三人にしろとゆうべお使いがござりましたんで、ちやんと平土間が取ってござります……」
「じゃ兄さん……」
顔なじみの出方に迎えられて導かれていった桟敷《さじき》は、花道寄りの恰好な場所でした。――下総から来た小芳の兄というのは、打ち見たところ先ず三十五六。小作りの実体《じってい》そうな男です。そのあとから小芳、つづいて梅甫、兄さんなる男も梅甫も別に人目を引く筈はないが、この日の小芳はまたいちだんの仇っぽさ。こういうところへ来ると、三年|曲輪《くるわ》の水でみがきあげた灰汁《あく》の抜けた美しさが、ひとしお化粧栄えがして、梅甫の鼻もまた自然と高い……。
出しものは景政雷問答《かげまさいかずちもんどう》、五番続き。
もう中日はすぎていたが、団十郎《なりたや》と上方くだりの女形《おやま》、上村吉三郎《うえむらきちさぶろう》の顔合せが珍しいところへ、出しものの狂言そのものが団十郎自作というところから、人気に人気をあおって、まこと文字通り大入り大繁昌でした。
「兄さん、下総の筵《むしろ》芝居とはちと違いましょう?」
「人前で恥をかかすものじゃねえ。下総、下総と大きな声で言や、田舎もののお里が分るじゃねえかよ。それにしても梅甫さん、江戸ってところは、よくよく閑人《ひまじん》の多いところだね」
小芳を真中にして、幕のあくのを待ちながら、三人むつまじく話し合っているところを、
「ちょっとご免やす」
変なところを通る男があればあるものです、すぐそばに花道もあることだし、横には桝目《ますめ》の仕切り板もあることだから、わざわざ三人の真中を割って通らなくてもよさそうなのに、幇間風《たいこもちふう》の男が無遠慮にも小芳の肩を乗りこえて、ひょいと大きく跨ぎながら通り越しました。
咄嗟に首をまげてこちらは避けたが、向うは故意からか、それとも跨ぐはずみからか、その裾がひらりと舞うように小芳の結い立ての髪に触れて、見事に出した小鬢《こびん》をゆらりとくずしたからたまらない。――梅甫の声が咎めるように追いかけました。
「おいおい。ちょっとまてッ」
「へえへえ、毎度ありがとうござりやす」
「白っぱくれたこと言うな。大切な髪をこわして、毎度ありがとうござりやすとは何だよ。貴様、たいこだな」
「左様で。何かそそうを致しましたかい」
「これをみろ。この髪のこわれた奴が分らねえのかよ」
「なるほど。ちっとこわれましたね、しかし、こういう大入り繁昌の人込みなんだからね。こわれてわるい髪なら、兜《かぶと》でもやっていらっしゃることですよ」
「なに! 跨いで通るってことがそもそも間違っているんだ。詫[#「詫」は底本では「詑」と誤植]《あやま》りもしねえでその言い草は何だよ」
「何だ! 何だ!」
声と一緒に、そのときどやどやと立ち上がって、花道向うの鶉《うずら》から飛び出して来たのは、六人ばかりのいかつい大小腰にした木綿袴のひと組です。たいこもちとは同じ連れか、でなくば見知り越しらしい話工合でした。
「何じゃ。三平。こやつら何をしたのじゃ」
「いいえなに、このおめかしさんの髪へ触ったとか触らないとか言ってね
前へ
次へ
全23ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
佐々木 味津三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング