暮れどき。
番町の治右衛門邸へ乗りつけたのが、かれこれもう初更《しょこう》近い刻限でした。
成上がり者ながら、とにもかくにも千石という大禄を喰《は》んでいるのです。役がまたお小納戸頭《おなんどがしら》という袖の下勝手次第、収賄《しゅうわい》御免の儲け役であるだけに、何から何までがこれみよがしの贅沢ぶりでした。
「早乙女の御前様、御入来にござります」
「これはこれは、ようこそ。さあどうぞ。御案内仕りまする。さあ、どうぞ」
ずらずらと配下の小侍が三四名飛び出すと、下へもおかぬ歓待ぶりが気に入らないのです。
導いていった座敷というのも油断がならぬ。
酒がある。
燭台《しょくだい》がある。
ずらずらと広間の左右に八九名の者が居並んで、正面にどっかと治右が陣取り、主水之介の姿をみるや否や座をすべって、気味のわるい程にもいんぎんに手をつきつつ迎えました。
「ようこそお越し下さりました。酒肴《しゅこう》の用意この通りととのいおりまする。どうぞこちらへ……」
どんな酒肴か、槍肴《やりざかな》、白刄肴《しらはざかな》、けっこうとばかり退屈男はのっしのっしと這入って行くと、座敷の真中にぬうと立ちはだかりました。
九
その夜ふけ……。
丑満近《うしみつちか》い本所あたりは、死の国のような静けさでした。
もうおかえりか、もう御戻りの頃であろうと、寝もやらず兄の帰りを待ったが、しかし主水之介は、番町の腰本治右屋敷へ乗り込んでいったきり、待てど暮せど一向に帰る気色《けしき》もないのです。
るすを守る京弥と菊路のふたりは、当然のごとくに不安がつのりました。
「ちとおそうござりますのな。どうしたのでござりましょう。大丈夫かしら?」
「………」
「なぜお黙りでござります! 菊がこんなに心配しておりますものを、あなたさまは何ともござりませぬのか。もう他人ではない筈、いいえ、菊の兄ならあなたさまにもお兄上の筈、一緒に心配してくれたらいいではありませぬか」
「心配すればこそ、京弥もこうして、さきほどからいろいろと考えているのでござりまするよ」
「あんなことを! 心配していたら、御返事ぐらいしたとていいではありませぬか。憎らしい……。このごろのあなたさまは何だかわたくしにつれなくなりましたのな。そのような薄情のお方は――」
「イタイ! イタイ! なにをなさります! そんなところを抓《つね》ってなぞして痛いではありませぬか!」
「いいえ、つねります! 抓ります! もっとつねります!……」
同じ心配をするにしても、このふたりの心配振りは諸事穏やかでない。
だが、肝腎の主水之介は、いつまで経っても帰らないのです。
しらじらとして、ついに夜があけかかりました。
しかし、沓《よう》として消息はない。
「どうしたのでござりましょうな。いかなお兄上さまでも、少しおかえりがおそうござります。それにお招きなさった方は、素姓《すじょう》が素姓、わたくし何だか胸《むな》騒ぎがしてなりませぬ」
「ゆうべ届いた腰本の書面はどこにござります? ちょっとお貸しなされませい」
読み直してみたが、しかしそれには、てまえごときもの、とうていお対手は出来申さず候、おちかづきのしるしに粗酒一|献《こん》さしあげたく、拙邸までお越し下さらば云々と書いてあるばかりなのです。
何でもないと思えば何でもない。
何か企らみがあると思えば思えないこともない。
突然、京弥のおもてに、さッと血の色がのぼりました。
「お支度なさりませ!」
「いってくれまするか!」
「ぼんやり待っておりましたとて、心配がつのるばかりでござります。何ぞ容易ならぬこと、起きているやも計られませぬ。お伴仕ります!」
緋じりめん鹿ノ子絞りの目ざめるような扱帯《しごき》キリキリと締め直して、懐剣《かいけん》甲斐々々しく乳房の奥にかくした菊路を随えながら、ふたりの姿は朝あけの本所をいち路番町に急ぎました。
陽があがって間もないのに、江戸の六月は朝まだきから蒸し風呂のなかに這入ったような暑さです。
「あれじゃ、あれじゃ。あの大きな屋敷がそうでござります」
「どのようなことがあっても、狼狽《うろた》えてはなりませぬぞ。京弥が抜くまでは抜いてはなりませぬぞ」
うしろに菊路を庇《かば》って、油断なく門前へ近づきました。
だが、屋敷のうちはしいんと静まり返って、ことりとの音もない。
八文字にひらかれた門から大玄関まで、打ち水さえもが打ってあって、血の嵐、争闘、殺陣は元よりのこと、騒ぎらしい騒ぎがあったらしい跡もなく、不気味なほどに静まり返っているのです。
しかしそれだけに京弥たちふたりは、一層不安がつのりました。
この静まり方は尋常な静まり方ではない。とうにもう主水之介を陥《おと》し入れて、あ
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