》です。
 ここから京橋へ上る水路は二つ。即ちその中洲口から箱崎河岸、四日市河岸を通って、稲荷橋下から八丁堀を抜けて上って行く水路と、やや大廻りだが川を下に永代橋をくぐって、御船手組の組屋敷角から同じく稲荷橋へ出て、八丁堀へ上る水路とその二つでした。言うまでもなく前の水路を辿った方が早いことを知っていたが、何を言うにも舟そのものがあまり縁起のよくない土左船なのです。上り下りはなるべく人目を避くべし、川中の通航は遠慮の事、他船の往来を妨げざるよう心して川岸を通るべし、という御布令書《おふれがき》の掟を重んじて、その川岸伝いに遠道の永代橋口へさしかかって行くと、酔狂といえば酔狂でした。そこの橋手前の乱杭際《らんぐいぎわ》に片寄せて、冬ざれの夜には珍しい夜釣りの舟が一艘見えるのです。しかもこれが只の舟ではない。艫《とも》と舳《へさき》の二カ所に赤々と篝《かがり》を焚いて、豪奢《ごうしゃ》極《きわま》りない金屏風を風よけに立てめぐらし、乗り手釣り手は船頭三人に目ざむるような小姓がひとり。
「やだね。別嬪《べっぴん》の小姓がひとりで時でもねえ冬の夜釣りなんて気味がわりいじゃねえか。今夜はろくなものに会わねえよ。――真平御免やす! 御目障りでござんしょうが、通らせておくんなせえまし! 土左船でごぜえます!」
「なに! 土左船!」
 小姓ひとりかと思ったのに、遠くから呼んだその声が伝わり届くと同時です。不思議な釣り舟の中から、凛《りん》とした声もろともにむっくり起き上がった今ひとりの人影が見えました。
 眉間に傷がある。
 誰でもない退屈男早乙女主水之介でした。
「土左船、水死人はどんな奴ぞ?」
「心中者でごぜえますよ」
「ほほう。粋《いき》なお客じゃな。何者達かい」
「男は京橋花園小路、糸屋六兵衛伜源七という書置がごぜえます。女は吉原三ツ扇屋の花魁|誰袖《たがそで》というんだそうでごぜえますよ」
「花魁とあの世へ道行はなかなかやりおるのう。よい、よい。通行差許してつかわすぞ。早う通りぬけい!」
 ギイギイとひそやかに土左船がろべそを鳴らしながら、漕ぎ去っていったのを見すますと、さも退屈そうに、長々と伸びをしながら、吐き出すように主水之介が言ったことでした。
「面白うない。京弥、そろそろ罷《まかり》帰るかのう。精進日という奴じゃ。土左船に出会うようでは釣れぬわい。ウフフフ。主水之介の眉間傷も小魚共には利き目が薄いと見ゆるよ」
「はッ。御帰館との御諚《ごじょう》ならば立ち帰りまするでござりますが、釣れぬのは――」
「釣れぬのは何じゃ」
「水死人ゆえでも、御眉間傷の利き目が薄いゆえでもござりませぬ。冬の夜釣りがそもそも時はずれ、ましてやタナゴ釣りは陽《ひ》のあるうちのもの、いか程横紙破りの御好きな御殿様でござりましょうとも、釣れる筈のない時に釣れる道理はござりませぬ」
「わははは。身共を横紙破りに致したは心憎いことを申す奴よのう。眉間傷《みけんきず》も曲っておるが、主水之介はつむじも少々左ねじじゃ。馬鹿があってのう」
「は?」
「昔のことよ。昔々大昔、馬鹿があってのう。箒《ほうき》で星を掃き落とそうとしたそうじゃ。ウフフフ。主水之介もその馬鹿よ。釣れても釣れのうても釣りたくなると釣って見たいのじゃ。――帰るかのう」
 いかさまつむじが言う通り少々左ねじです。主水之介いかに江戸一の名物男であったにしても、時でもない時に釣れる筈はない。だのに、釣れぬと知りつつ、こんな冬ざれの寒風をおかしながら、わざわざ夜釣りにやって来たのは、タナゴ釣りの豪奢極まりない清興に心惹かれたからでした。手竿は、折りたたむと煙管《きせる》の長さだけに縮まるところからその名の起きた、煙管尺十本つぎの朱ぬり竹、針糸《はりす》は、男の肌を知らぬ乙女の生毛《いきげ》を以ってこれに当てると伝えられている程の、凝《こ》りに凝った大名釣りなのです。
「船頭々々」
「へッ」
「獲物はないが、冬ざれの大川端の遠灯《とおび》眺むるもなかなか味変りじゃ。そのように急ぐには及ばぬぞ」
「でも京弥様が、寒いゆえ早うせい、早うせいと――」
「申したか! ウッフフ。京弥! なかなか軍師じゃのう。どんな風やら、さぞかし寒かろうぞ。菊めの袖屏風がないからのう。身共も吉原へでも参って、よい心中相手を探すかな」
「ま! またお兄様が御笑談ばッかり、その菊路はここにお迎えに参っておりまする」
 言ううちにいつか長割下水の屋敷近くへ漕ぎつけていたと見えて、薄闇の中から不意に言ったのは妹のその菊路です。
「あの、京弥さまは? ……」
「ここでござります」
「ま? お寒そうなお姿して――、御風邪は召しませなんだか。そうそう。あの御兄様、大事ことを忘れておりました」
 大事なことがあるというのに、先ず先に想《おも》い人京
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