々々」
万一の場合を考えて手馴れの鉄扇片手にすると、紫紺絖小姓袴《しこんぬめこしょうばかま》の裾取って、まっしぐらに追いかけました。
だが、やがてのことに帰って来た姿を見ると、怪訝《けげん》そうに首をかしげているのです。
「見かけざったか」
「ハッ。いかにも不思議でござります。ご存じのように道は、遠山三之進様の御屋敷まで真ッ直ぐに築地《ついぢ》つづき、ほかに曲るところもそれるところもござりませぬのに、皆目《かいもく》姿が見えませぬ。念のためにと存じまして、裏へも廻り、横堀筋をずッと見検べましたが、ひと影はおろか小舟の影もござりませぬ」
「のう! ……。参ったからには足がないという筈はあるまい。ちとこれはまた退屈払いが出来るかな。その菓子、二折とも開けてみい」
恐る恐る開けて見ると、しかしこれが二つともに見事な品でした。――源七からの贈り物は、桔梗《ききょう》屋の玉だれ。
誰袖からの品もまた、江戸に名代の雨宮の干菓子です。
「ほほう、いよいよ不審よのう。二品ともにみな主水之介の大好物ばかりじゃ。身共の好物知って贈ったとは、幽霊なかなか話せるぞ。それだけに気にかかる。京弥、何時頃《なんどきごろ》じゃ」
「四ツ少し手前でござります」
「先刻、土左船がたしか京橋花園小路の糸屋だとか申したな」
「はッ。間違いなく手前もそのように聞きましてござります」
「ちと遅いが、すておけぬ。伜がよからぬ死に方したとあっては、定めし寝もやらず、まだ打ち騒いでおるであろう。よい退屈払いじゃ。そちも供するよう乗物支度させい」
いかさま棄ておけない事でした。心中を遂げた筈の男女から不気味至極な折箱到来とあっては、よい退屈払いどころか、事が穏かでないのです。
打ち乗ればもう直参千二百石、京弥をつれての道中も悪くないが、乗り心地もまた悪くない。
町から町は凩《こがらし》ゆえにか大方もう寝しずまって辻番所の油障子にうつる灯が、ぼうと不気味に輝いているばかり……。
「その駕籠待たッしゃい。急いでどこへお行きじゃ」
「身共じゃ。退屈払いに参るのよ。この眉間《みけん》をようみい」
「あッ。傷の御前――いや、早乙女の御前様でござりまするか。御ゆるりと御保養遊ばしませい」
保養とは言いも言ったり、傷も江戸御免なら退屈払いも今はすでに江戸御免でした。――急ぎに急いで、察しの通りまだカンカンと灯をともしている糸屋六兵衛方の店先へ乗りつけると、これがまたわるくないのです。
「直々《じきじき》の目通り、苦しゅうないぞ。主人《あるじ》はおるか」
「おりますが、只今ちょッと家のうちに取込みがござりますゆえ、出来ますことならのち程にでも――」
「その取込事にかかわる急用で参ったのじゃ。おらば控えさせい」
「失礼ながらどちら様でござります」
パラリと静かに頭巾をとると、黙ってさしつけたのは名物のあの眉間傷でした。
「あッ、左様でござりましたか。それとも存ぜず失礼致しましてござります。――旦那様! 大旦那様! 早乙女の御殿様がわざわざお越しにござります! 御早くどうぞこれへ!」
仰天したのは当り前です。あたふたと姿を見せて、物も言えない程に打ちうろたえながらそこへ手をついた六兵衛へ、穏かに言葉をかけました。
「そのように固《かた》くならずともよい。主水之介不審あって罷《まか》り越《こ》したのじゃ。土左船《どざぶね》の者達、こちらへ参った筈じゃが、伜共の死体もう届いたであろうな」
「へえい。と、届きましてござります。半刻程前に御運び下さいましたが、それがちと――」
「いかが致した。生き返ったか!」
「ど、どう仕りまして。伜とは似てもつかぬ全然の人違いなのでござります」
「なにッ。人違いとのう! ほほう、そうか。ちとこれは面白うなって参ったかな。なれども死顔は変るものじゃという話であるぞ」
「よしや変りましても、親の目は誰より確か。年恰好、背恰好はどうやら似ておりまするが、伜はもッと優型《やさがた》でござりました。水死人はむくみが参るものにしても、あのように肥っておりませなんだ筈、親の目に間違いはござりませぬ」
「でも、書置にまさしくその方伜と書いてあったそうじゃが、それは何と致した」
「なにより不審はそのこと。骸《むくろ》は誰が何と申しましょうとも、見ず知らずの他人でござりますのに、どうしたことやら、書置の文字は紛《まぎ》れもなく伜の手蹟《て》でござりますゆえ、手前共もひと方ならず不審に思うているのでござります」
「女の方はどうぞ? 誰袖とやらの骸は、吉原へ送ったか。それともまだこちらにあるか」
「こちらにござります。何が何やらさッぱり合点参りませぬゆえ、庭先に寝かしたままでござりまするが、それもやはり――」
「人違いじゃと申すか!」
「はッ。なにはともかくと存じまして、さ
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