老体。沼田の御老体!」
「ここじゃ。ちゃんとうしろにおりますわい」
「……? なるほど、左様か。いつのまにおいでじゃ。これが主水之介の妹菊路でござる」
「そちらが御妹御御意中の御小姓か」
「と、まア、左様に若い者を前にして、あからさまなことは言わぬものじゃ。役者が揃わば手段《てだて》は身共の胸三寸にござる。すぐさま参りましょうぞ。……のう菊」
「あい……」
「そち、疲れておるか」
「あい、少しばかり。……いいえ、あの、久方ぶりに懐かしいお兄様のお顔を見たら、急に元気が出て参りました。何でござります、わたくしに火急の御用とは何でござります」
「それがちと大役なのじゃ。なれどもそちとて早乙女主水之介の妹じゃ。よいか。この兄の名を恥ずかしめぬよう、この兄に成り代ってこの兄にもまさる働きをするよう、充分覚悟致して大役果せよ。と申すはほかでもないが、当大和田の郷《ごう》に、みめよき女子と見ればよからぬ病の催す不埓《ふらち》な旗本がひとりおるのじゃ。領民達の妻女、娘なぞを十一人も掠《かす》め奪り、沙汰の限りの放埓《ほうらつ》致しおると承わったゆえ、早速に兄が懲《こ》らしめに参ろうと思うたが、わるいことにきやつめ、兄と面識のある間柄なのじゃ。それゆえ……」
「分りました。それゆえ顔を見知られぬこの菊に、お兄様に代って懲らしめに参れとおっしゃるのでござりまするか」
「然り。なれども只懲らしめに参るのではない。ちとそこに工夫がいるのじゃ。今も申した通り、至っての女好きじゃでな。さぞかしそちとしては辛くもあろうし、きくもけがわらしい事であろうが、一つには可哀そうな十一人の女子《おなご》のために、二つにはその女子共を掠められて恨み泣きに泣き恨んでおる領民共のために、三つには八万騎旗本一統の名誉のために、そちが重責|荷《にな》った節婦になるのじゃ。それゆえ、よいか、このように申してそちひとりがきゃつの屋敷に乗り込んで参れよ。わたくし、旅に行き暮れて道に踏み迷い、難渋《なんじゅう》致しておる者でござります。ぶしつけなお願いでござりまするが、いち夜の宿お貸し願えませぬかと、この様にな、さもさも困り果てているように見せかけてまことしやかに申すのじゃ。さすれば人一倍色好みのきゃつのことじゃ、兄の口からこのようなこと言うのもおかしいが、江戸でもそう沢山はないそちの縹緻《きりょう》ゆえ、きゃつがほっておく筈はない。わるい病が催して何か言い寄って参らば、そこがそちの働きどころじゃ。近寄らず近寄らせず巧みにあしらって懲《こら》しめてやるのよ」
「ま! 恐ろしい! ……でも、でも仕損じて、もしも身にけがらわしい危険が迫りましたら……」
「死ね!」
「えッ!」
「いや、恥ずかしめられなば死ぬ覚悟で参れと申すのじゃ。役者はそちひとりじゃが、うしろ楯《だて》にはこの兄がおる。京弥もついておる。それからここにお在での風変りなおじい様も控えておられる。そちと一緒に兄達三人も庭先に忍び入り、事急と相成らば合図次第押し入って、充分に危険は救うてつかわすゆえ、その事ならば心配無用じゃ。よいか、今申した通り、きゃつめがいろいろと淫《みだら》がましゅう言い寄って参るに相違ないゆえ、風情《ふぜい》ありげに持ちかけて、きゃつを坊主にせい」
「坊主?![#「?!」は横1文字、1−8−77] なんのためにござります。何の必要がござりまして、御出家にするのでござります」
「それはあとで相分る。わざわざそちを呼び招いたのも、つまりは、やつの頭をクリクリ坊主にさせたいからじゃ。是が非でも出家にさせねばならぬ必要があるゆえ、そちが一世一代の手管《てくだ》を奮って、うまうまと剃髪《ていはつ》させい」
「でも、でも、わたし、そんな手管とやらは……」
「知るまい、知るまい、そちがはしたない女子《おなご》の手管なぞ存じおらば事穏かでないが、でも、近頃は万更知らぬ事もなかろうぞ。兄がるす中、それに似たようなことを京弥と二人して時折試みていた筈じゃ。わはは。のう、違うかな」
「ま!……」
「いや、怒るな、怒るな、これは笑談じゃ。いずれに致せ、一つ間違わば操に危険の迫るような大役ゆえ、行けと言う兄の心も辛いが、そちの胸も悲しかろう。なれども、天下の御政道のために、是非にも節婦となって貰わねばならぬ。どうじゃ、行くか」
「………」
「泣いてじゃな。行くはいやか」
「いえ、あの、京弥さまさえお許し下さいましたら――」
「参ると申すか」
「あい、行きまする!」
「出かしたぞ、出かしたぞ、いや、きつい当てられたようじゃ。京弥、どうぞよ。菊めが赤い顔して申してじゃ。そち、許してやるか」
「必ずともに危険が迫っても、手前のために操をお護り下さると申しますなら――」
「わはは。当ておるわ、当ておるわ、若い者共、盛んに当ておるわい。いや、事がそう決まらば急がねばならぬ。御老体、先ず事は半《なかば》成就《じょうじゅ》したも同然じゃ。御支度さッしゃい」
健気《けなげ》な菊路の旅姿を先にして、主水之介、京弥、老神主三人がこれを守りながら、目ざす大和田十郎次の屋敷へ行き向ったのが丁度暮れ六ツ。
元より門はぴたりと締って、そこはかとなくぬば玉の濃い闇がつづき、空も風も何とはのう不気味です。
だが菊路は、涙ぐましい位にも今|健気《けなげ》でした。つかつかと門の外へ歩みよると、ほとほと扉を叩いて中なる門番に呼びかけました。
「あの、物申します。わたくし、旅に行き暮れた女子《おなご》でござります。宿を取りはぐれまして難渋《なんじゅう》ひと方ではござりませぬ。今宵いち夜、お廂《ひさし》の下なとお貸し願えぬでござりましょうか、お願いでござります」
「なに、女子でござりますとな。待たッしゃい、待たッしゃい。宿を取りはぐれた女子とあっては耳よりじゃ。どれどれ、どんなお方でござります」
ギイとくぐりをあけて、しきりにためつすかしつ、差しのぞいていたが、菊路ほどの深窓《しんそう》珠をあざむく匂やかな風情が物を言わないという筈はない。にたりと笑って、忠義するはこの時とばかり、屋敷の奥へ注進に駈け込んでいったその隙を狙いながら、退屈男達三人はすばやく身をかくしつつ、邸内深くの繁みの中に忍び入りました。
「御老体、そなた屋敷の模様御存じであろう。十郎次の居間はいずれでござる」
「今探しているところじゃ。待たっしゃい。待たっしゃい。いや、あれじゃ、あれじゃ。あの広縁を廻っていった奥の座敷がたしかにそうじゃ」
息をころして忍びよると、容子やいかにと耳を欹《そばた》てながら中の気勢《けはい》を窺《うかが》いました。――どうやらあの十一人の掠《かす》め取った女達をその左右にでも侍《はべ》らせて、もう何か淫《みだ》らな所業を始めているらしい容子です。と思われた刹那、門番から近侍の者へ、近侍の者から十郎次へ、菊路のことが囁《ささや》かれでもしたらしく、急に座内が色めき立ったかと思われるや一緒に、十郎次の言う声が戸の外にまで洩れ伝わりました。
「そのような椋鳥《むくどり》が飛び込んで参ったとすれば、ほかの女共がいては邪魔《じゃま》じゃ。下げい。下げい。残らずいつものあの部屋へ閉じこめて、早うその小娘これへ連れい」
声と共に忽ちすべての手筈が運ばれたらしく、程たたぬまに主水之介達三人が窺いよっているそこの広縁伝いに、こちらへさやさやとつつましやかに衣《きぬ》ずれの音を立てながら、大役に脅《おび》えおののいているのに違いない菊路が導かれて来た気配《けはい》でした。と同時です。もうその場から汚情《おじょう》に血が燃え出したものか、十郎次の濁《にご》った声が伝わりました。
「ほほう、いかさまあでやかな小娘よ喃。道に踏み迷うたとかいう話じゃが、どこへの旅の途中じゃ」
「………」
「怖《こわ》うはない、いち夜はおろか、ふた夜三夜でも、そなたが気ままな程に宿をとらせて進ぜるぞ。どこへ参る途中じゃ」
「あの、日光へ行く途中でござります」
「ほほう、左様か。このあたりは道に迷いやすいところじゃ。それにしてもひとり旅は不審、連れの者はいかが致した」
「あの、表に、いいえ、表街道までじいやと一緒に参りましたなれど、ついどこぞへ見失うたのでござります」
「じいやと申すと、そなた武家育ちか」
「あい、金沢の――」
「なに、加賀百万石の御家中とな。どことのうしとやかなあたり、育ちのよさそうな上品さ、さだめて父御《ててご》は大禄の御仁であろう喃」
「いえ、あの、浪人者でござります。それも長いこともう世に出る道を失いまして、逼息《ひっそく》しておりますゆえ、よい仕官口が見つかるようにと、二つにはまた、あの――」
「二つにはまたどうしたと言うのじゃ」
「あの、わたくしに、このような不束者《ふつつかもの》のわたくしにでもお目かけ下さるお方がござりますなら、早くその方にめぐり合うよう、日光様へ願懸けに行っておじゃと、母様からのお言いつけでござりましたゆえ、じいやと二人して参ったのでござります」
「ウフフ。うまいぞ。うまいぞ」
きいて戸の外の退屈男は小さく呟《つぶや》きました。しかし、穏かでないのは京弥です。きき堪えられないように身悶えながら色めき立ったのを、
「大事ない、大事ない。あれが手管ぞよ。手管ぞよ。今暫くじゃ、辛抱せい」
小声で叱りながら、なおじッと聞耳立てました。それとも知らずに十郎次は、菊路の巧みな誘いの一手に汚情を釣り出されたとみえて、ますます色好みらしい面目をさらけ出しました。
「聟探しの日光|詣《もう》でとはきくだに憎い旅よ喃。もしも目をかけてとらす男があったら何とする」
「ござりましたら――」
「ござりましたら、何とするのじゃ」
「そのようなお方がござりましたら、きっと日光様が御授け下さりましたお方に相違ござりませぬゆえ、いいえ、あの、わたくしもうそのようなこと申上げるのは恥ずかしゅうござります」
きくや、実に十郎次の行動は直接なのです。直接以上に露骨でした。にじり寄ってむんずとその手をでも取ったらしい気勢《けはい》がきこえると共に、あからさまな言葉がはっきりときこえました。
「可愛いことを申す奴よ喃。身共がなって進ぜよう。誰彼と申さずに、この拙者が聟になって進ぜるがいやか」
「ま! でも、でもあのそんな、ここをお放し下されませ! あの、そんな今お会い申したばかりなのに、もうそんな――」
「いつ会うたばかりであろうと、そなたが可愛うなったら仕方がないわい。どうじゃ。拙者の心に随うてくれるか」
「でも、あの、あなた様は――」
「わしがどうしたと申すのじゃ」
「卑《いや》しいわたくしなぞが、お近づくことすら出来そうもないほど、御身分の高いお方のようでござりますゆえ、わたくし、空恐ろしゅうござります」
「しかし、恋に上下はないわい。この通りまだ三十になったばかり、妻も側女《そばめ》もないひとり身じゃ。そちさえ色よい返事致さば、どんなにでも可愛がってつかわすぞ。いいや、そちの望みなら何でもきき届けて進ぜるぞ。親御の仕官口もよいところを見つけて、世に出るよう取り計らってつかわすぞ。どうじゃ、言うこときくか」
「それがあの、本当なら倖《しあわせ》でござりますなれど……わたくし、あの只一つ――」
「只一つどうしたと言うのじゃ」
「………」
「黙っていては分らぬ。言うてみい、只一つどうしたと申すのじゃ」
「気になることがあるのでござります」
「どういうことじゃ」
「あの、小さい時、鞍馬《くらま》の修験者《しゅげんじゃ》が参りまして、わたくしの人相をつくづく眺めながら、このように申したのでござります。そなたは行末ふとしたことから、身分の高いお方のお情をうけるやも知れぬが、その節は必ずこの事守らねばならぬ。俗人のままの姿でお情うけたならば、その場で悲しい禍《わざわ》いに会わねばならぬゆえ、ぜひにもお頭《つむり》を丸め、御|法体《ほったい》になって頂いてからお情うけいと、このように申されましたゆえ、それが気になるのでござります」
「馬鹿な! 修験者|風情《ふぜい》の申すことが何の当に
前へ
次へ
全6ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
佐々木 味津三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング