のうしろと覚《おぼ》しきあたりです。しかも、声はさらにつづいて伝わりました。
「逃げた。逃げた。野郎め、そッちへ逃げたぞッ」
「追ッかけろッ。追ッかけろッ。逃がしてなるもんかい! 逃がせばこんな奴、御領主様に何を告げ口するか分らねえんだ! 叩き殺せッ、叩き殺せッ」
怒号と共にバタバタという足音が聞えたかと思うや、必死にこちらへ逃げ走って来たのは、意外! あの消えて失くなった鳥刺しなのです。追うて来たのがまたさらに奇怪! 十人、二十人、三十人――、いやすべてでは五六十人と覚しき農夫の一隊でした。しかもその悉《ことごと》くが手に手に竹槍、棍棒《こんぼう》、鍬、鎌の類をふりかざしているのです。
一|揆《き》?
百姓一揆?
どきりと退屈男の胸は高鳴りました。一揆だったら事穏かでない。――まさに由々敷重大事なのです――その刹那、足の早い農民の両三人が砂煙あげつつ鳥刺しの背後に殺到したと見るまに、早くすでに四ツ五ツ、棍棒の乱打がその背を襲いました。同時にそれを見眺めるや、白髯痩躯《はくぜんそうく》の老神主が、主水之介に狙いつけていた手槍を引きざま、横飛びによたよたと走りよると、勿論叱って制止するだろうと思われたのに、そうではないのです。
「くくらッしゃい! くくらッしゃい! 殺してしまわばあとが面倒じゃ。殺さずにくくらッしゃい! 以後の見せしめじゃ。くくッて痛い目にあわさッしゃい!」
さすがに虐殺することだけは制止したが、自身先に立って手槍を擬《ぎ》しながら、鳥刺しの逃げ去ろうとした行く手を遮断すると、農民達に命じてこれを搦め捕らせようとさせました。しかしそのとき、すいすいと足早に近寄って遮切《さえぎ》ったのは主水之介です。手にしていたモチ竿を投げすてながら、襲いかかろうとしていた農民達を軽く左右にはねのけて、ぴたり、鳥刺しをうしろに庇《かば》うと、静かに、だが、鋭い威嚇《いかく》の声を先ず放ちました。
「控えおらぬか。騒ぐでない。何をするのじゃ」
「何だと!」
「邪魔ひろぐねえ」
「どこから出て来やがったんだッ」
「退《ど》きやがれッ。退きやがれッ。退かねえとうぬも一緒に痛え目にあうぞッ」
どッと口々に犇《ひし》めき叫びながら襲いかかろうとしたのを、
「控えろと申すに控えおらぬか! これをみい! 身共もろ共痛い目にあわすはよいが、とくと先ずこれを見てから命と二人で相談せい!」
静かに威嚇しつつ、深編笠をバラリとはねのけて、ずいと農民達の面前に突きつけたのはあれです。あの眉間傷です。
「………?![#「?!」は横1文字、1−8−77]」
「………?![#「?!」は横1文字、1−8−77]」
「のう、どうじゃ。ずうんと骨身までが涼しくなるようなよい疵であろうがな。近寄ればチュウチュウ鼠啼き致して飛んで参るぞ」
「………?![#「?!」は横1文字、1−8−77]」
「………?![#「?!」は横1文字、1−8−77]」
ぎょッとなって身を引きながら、いずれも農民達はやや暫し片唾《かたず》を呑んで遠くからその傷痕を見守っていたが、まさにこれこそは数の力でした。否、よくよく誰もが抑え切れぬ憤《いきどお》りを発していたと見えて、揉み合っている人垣のうしろから、爆発するように罵り叫んだ声が挙りました。
「やッつけろ。やッつけろ。構わねえからやッつけろ。どこのどやつだか知らねえが、邪魔ひろぐ奴アみなおいらの讐《かたき》だ。のめせ! のめせ! 構わねえから叩きのめせ!」
「違げえねえ。一ぺん死にゃ二度と死なねえや! いってえおいらお侍《さむれい》という奴が気に喰わねえんだ。百姓と見りゃ踏みつけにしやがって気に喰わねえんだ。やッつけろ。やッつけろッ。みんな死ぬ覚悟でやッつけろ」
声と同時です、殺気を帯びたどよめきがさッと人波のうしろに挙ったかと見えるや一緒で、バラバラと投げつけたのは咄嗟の武器の石つぶてです。
「わはは。さてはこの眉間傷もその方共には猫に小判と見ゆるな。面白い。石と矢とは少しく趣きは異なるが、篠崎先生が秘伝の矢止めの秘術、久方ぶりに用いて見るも一興じゃ。投げてみい! 受け損じなばお代は要らぬ。見事に止めて見しょうぞ。投げい! 投げい! もそッと投げて見い!」
泰然自若、雨と霰《あられ》にそそぎかかる石のつぶてを右に躱《かわ》し左に躱して、顔色一つ変えずに大きく笑ったままなのだから敵《かな》わないのです。しかもその身の躱し方のあざやかさ!
「わッははは。当らぬぞ。当らぬぞ。――左様々々。今のはやや法に敵《かな》った投げ方じゃ。いや、うまい。うまい。その意気じゃ。その意気じゃ。もッと投げい! もそッと必死になって投げてみい」
笑いつつ、パッと躱してはさッと躱し、掴んで投げる小石はこれをバラバラと編笠の楯で受け止め、そうして悠揚自若、只もう見事の二字に尽きるすばらしさでした。いや、これこそはまさしく技《わざ》の冴え、肝《きも》の太さ、胆《たん》の冴えの目に見えぬ威圧に違いないのです。投げては襲い、襲ってはまた投げつけて、必死に挑《いど》みつづけていたが、泰然自若としながら顔色一つ変えぬ主水之介のすさまじい胆力と水際立った技の冴えに、いずれも農民達は知らず知らずに恐怖と威圧を覚えうけたものか、誰から先にとなくじりじりとあとに引いて、石つぶての襲撃もどこから先に止まったともなく止まりました。いや、農民達ばかりではない。ことごとく舌を巻いたらしいのはあの老神官です。呆然自失したように手槍を杖についたまま、じいッと主水之介のすばらしい男前にやや暫し見惚れていたが、のそりのそり近づいて来ると、上から下へじろじろと探るように見眺めながら、ぽつりと言いました。
「貴公、なかなか――」
「何でござる」
「当節珍らしい逸品《いっぴん》でおじゃるな」
「わはは、先ず左様のう。自慢はしとうないが、焼き加減、味加減、出来は少し上等のつもりじゃ。刀剣ならば先ず平安城流でござろうかな。大のたれ、荒匂《あらにお》い、斬り手によっては血音《ちおと》も立てぬという代物《しろもの》じゃ。鯛ならば赤徳鯛《あかほだい》、最中《もなか》ならトラヤのつぶし餡[#「餡」は底本では「(餉−向)+(稻−禾)、第4水準2−92−68」]と誤植]、舌の奥にとろりと甘すぎず渋すぎず程のよい味が残ろうという奴じゃ。お気に召したかな」
「大気《おおき》に入りじゃ。御身分柄は何でおじゃる」
「傷の早乙女主水之介と綽名《あだな》の直参旗本じゃ」
「なにッ、何だと!」
「のめせ! のめせ!」
「それきいちゃもう我慢が出来ねえんだ。こいつも同じ旗本だとよう! のめせ! のめせ! 叩きのめせ!」
はしなくも名乗った旗本の一語をきくや、手を引いていた農民達が、再びわッと犇《ひし》めき立つと、不審な怒気を爆発させながら、揉合い押合ってまたバラバラと石つぶての襲撃を始めました。然しその刹那、必死に手をふってこれを御したのは老神主です。
「またッしゃい! 待たッしゃい! 旗本は旗本でも、この旗本ちと品が違うようじゃ! 投げてはならぬ。鎮《しず》まらッしゃい! 鎮まらッしゃい!」
「でも、同じ旗本ならおいらはみな憎いんだ。うちの御領主様もその旗本なればこそ、お直参風を笠に着て、あんな人でなしのむごい真似をするに違げえねえんだ。やッつけろッ。やッつけろッ、構わねえから叩きのめせッ」
「待たッしゃいと言うたら待たッしゃい! そのように聞き分けがござらぬと、わしはもう力を貸しませぬぞ。物は相談、荒立てずに事が済めばそれに越した事はないのじゃ! 手を引かッしゃい! 手を引かッしゃい! それよりあれじゃ、あれじゃ。あの男を早く!――」
制しておいてひょいとみると、どこにもいない。あのいぶかしい鳥刺しはいつのまにまた消えて失くなったものか、折から迫った夕闇に紛れて巧みに逃げ去ったらしく、影も形も見えないのです。
「小鼠のような奴じゃな。よいよい。いなくばよいゆえ、二度とあいつめを寄せつけぬよう、充分見張りを固めて、静かに待っておらッしゃい、よろしゅうござるか。篝火《かがりび》を焚いたり、鬨《とき》の声を挙げなば引ッ捕えられぬやも知れぬゆえ、鳴りを鎮めていなくばなりませんぞ。――御仁。旅の御仁!」
奇怪から奇怪につづく奇怪に、いぶかしみながら佇んでいる退屈男のところへ歩みよると、老神主沼田正守は言葉も鄭重に誘《いざな》いました。
「貴殿の胆力に惚れてのことじゃ。お力を借りたい一儀がおじゃる。あちらへお越し召さらぬか」
「ほほう、ちと急に雲行がまた変りましたな。借り手がござらば安い高いを申さずにお用立て致すこの傷じゃ。ましてや旗本ゆえに恨みがあると聞いてはすておけぬ。いかにも参りましょうぞ。どこへなと御案内さッしゃい」
導いていったところは社務所の中でした。
三
しかし、この社務所が只の社務所ではないのです。部屋一杯に和漢の書物が所構わず積んであって、その上に骨がある。馬の骨、鹿の角《つの》、人の骨、おシャリコウベ、それから蛇のぬけがら、いずれも不気味な品が雑然と所嫌わずに置いてあるのです。しかも刀剣が八|口《ふり》、槍が三本、鎧が二領、それらの中に交って、老人、医道の心得があるらしく、いく袋かの煎《せん》じ薬と共に、立派な薬味箪笥《やくみだんす》が見えました。
「ウフフ。これは少々恐れ入った。御老体もちと変り種でござりまするな」
変り者たる点に於ては決して人後に落ちる退屈男でないが、これはいかにも大変りでした。胆力双絶の主水之介もいささか呆れ返って、ひょいとそこの床の間に掛けてある軸を見ると、はしなくも目を射たものは次のごとくに書き流された細《こまか》い文字です。
「予ガ子々孫々誓ッテ守ルベシ、大和田八郎次《オオワダハチロウジ》、病気平癒ノ祈願致セシトコロ、九死ニ一生ヲ得テ幸イニ病魔ノ退散ヲ見タルハ、コレ単《ヒトエ》ニ当豊明権現ノ御加護ニ依ルトコロナリ
依而《ヨッテ》、予ガ家名ノ続ク限リ永代《エイダイ》、米、年ニ参百俵宛貢納シ、人夫労役ノ要アルトキハ、領内ノ者共何名タリトモ微発《チョウハツ》シテ苦シカラズ、即チ後日ノ為ニ一書ス 領主大和田八郎次※[#丸付きの「印」、233−下−1]――」
「ほほう喃《のう》」
読み下すと同時に退屈男は、はッとなって意外げにきき尋ねました。
「珍しい一軸じゃ。御老体、当所はそれなる軸に見える大和田家の知行所か」
「左様でおじゃり申す。何やら驚いての御容子じゃが、貴殿大和田殿御一家の方々御知り合いでおじゃりますか」
「知らいで何としょう。それに見える八郎次殿はたしか先々代の筈、当主十郎次は身共同様同じ八万騎のいち人じゃ。それにしても、十郎次どのの所領にめぐりめぐって参ったとは不思議な奇縁でござるな」
おどろいたのも無理はない。軸に書かれた八郎次の孫なる当代大和田十郎次は、旗本も旗本、石高《こくだか》二千八百石を領する小普請頭《こぶしんがしら》のちゃきちゃきだったからです。しかも事は今、同じそのお直参八万騎の列につながる同輩の所領地に於て、由々敷も容易ならぬ火蓋を切らんとするに至っては、自ら天下御政道隠し目付御意見番を以て任ずる早乙女主水之介の双の目が、らんらん烱々《けいけい》と異様に冴え渡ったのは当然でした。
「騒ぎは何でござる。どうやら百姓共の容子を見れば、一揆でも起しそうな気勢《けはい》でござるが、騒ぎのもとは何でござる」
「それがいやはや、さすがの沼田正守、あきれ申したわい。かりにも御領主どのゆえ、悪《あし》ざまに言うはちと憚《はば》り多いが、それにしても当代十郎次どの、少々あの方がきびしゅうてな」
「きびしいと申すは、年貢《ねんぐ》の取立てでござるか」
「どう仕って、米や俵の取立てがきびしい位なら、まだ我慢が出来申すというものじゃが、あれじゃ、あれじゃ、目篇《めへん》でござるわい」
「目篇とは何でござる」
「目篇に力《か》の字じゃ」
「ウッフフ。わッははは! 左様でござるか。助《すけ》でござるか。助でござるか。助の下は平でご
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