げ出して来た者でござります」
「なに? 身共の力にすがりたいとな! 人違いじゃとな! 災難に会うているとな!――はて喃《のう》。そう言えばこの奥へ逃げ失せた女とは少し背が小さいようじゃが、では、今朝ほど坂で会うたあの娘ではないと申すか」
「いえ、あの時のあの者でござります。江戸お旗本のお殿様とも存ぜず、何やら怕《こわ》うござりましたゆえ、ついあの時は逃げましたなれど――」
「逃げたそなたが、またどうしてこのような怪しい尼姿なぞになったのじゃ」
「お力お願いに参りましたのもこの尼姿ゆえ、悲しい災難に会うているのもこの恥ずかしい尼姿ゆえでござります」
「ほほう喃。これはまた急に色模様が変ったな。仔細は何じゃ、一体どうして今朝ほどのあのかわいらしい姿をこんな世捨人に替えたのじゃ」
「それもこれも……」
「それもこれもがいかが致した」
「お恥ずかしいこと、恋ゆえにござります」
「わははは、申したな。申したな、恋ゆえと申したな。いやずんと楽しい話になって参ったわい。身共も恋の話は大好きじゃ。聞こうぞ、聞こうぞ。誰が対手なのじゃ」
「申します。申します。お力におすがり致しますからには何もかも申しますなれど、あのそのような、そのような大きいお声をお出しなさいましては、奥に聞かれるとなりませぬゆえ、もう少しおちいさく……」
「なに! では、そなたの災難も今奥へ消えていった荒法師玄長に関《かかわ》りがござるか」
「あい。ある段ではござりませぬ。あの方様は御院代になったのを幸いにして、いろいろよからぬ事を致しまするお方じゃとの噂にござります。それとも知らずお弟子の念日様《ねんにちさま》に想いをかけましたがわたしの身の因果――、わたくしは岩淵の宿《しゅく》の者でござります。このお山の川の川下の川ほとりに生れた者でござります。ついこの春でござりました。念日様が御弘法旁々《ごぐほうかたがた》御修行のお山の川を下って岩淵の宿へおいでの砌《みぎり》、ついした事から割りない仲となりましたのでござります。なれどもかわいいお方は、いいえ、あの、恋しい念日様は御仏に仕えるおん身体、行末長う添うこともなりませぬお身でござりますゆえ、悲しい思いを致しまして、一度はお別れ致しましたなれど――。お察し下されませ。女子《おなご》が一生一度の命までもと契った恋でござりますもの、夢にもお姿忘れかねて、いろいろと思い迷
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