…そんなこと、知りませぬ。ひとりで参ります。どうぞもう側へ寄らないで下さりませ」
 だが女は、退屈男の眼の配りの鋭さにうっかり手出しは禁物と警戒したものか、それともそうやって嬌羞《きょうしゅう》を作っておいて油断させようというつもりからか、くねりと身をくねらせながら長い袂で面を覆うと、逃げるように側から離れました。しかもその早いこと、早いこと、燕のように身をひるがえしながら、丁度行きついた境内へ小走りに駈け込むと、ウチワ太鼓の唸りさざめいている間を、あちらにくぐりこちらにくぐりぬけて、あッと思ったそのまに、もうどこかへ姿を消しました。
「わははは、剣道修業の者ならば、先ず免許皆伝以上の心眼《しんがん》じゃ。苦手と看破って逃げおったな。いや、よいよい、この境内へ追い込んでおかば、またお目にかかる事もあろうわい。――こりゃ、坊主、坊主」
 勿体らしく衣の袖をかき合せながら、むらがり集《たか》っている講中信者の間をかいくぐって、並び宿坊の方へ境内を急いでいた雛僧を見つけると、まことに言いようもなく鷹揚《おうよう》でした。
「有難く心得ろ。江戸への土産に見物してつかわすぞ。案内せい」
「滅相な、当霊場は見物なぞする所ではござりませぬ。御信心ならばあちらが本堂、こちらが御祖師堂、その手前が参籠所でござります。御勝手になされませ」
 剣もほろろにはねつけた気の強さ! 無理もない、聖日蓮《しょうにちれん》が波木井郷《はきいごう》の豪族、波木井実長の勧請《かんじょう》もだし難く、文永十一年この一廓に大法華の教旗をひるがえしてこのかた、弘法済世《ぐほうさいせい》の法燈連綿としてここに四百年、教権の広大もさることながら、江戸宗家を初め紀《き》、尾《び》、水《すい》の御三家が並々ならぬ信仰を寄せているゆえ、将軍家自らが令してこれに法格を与え、貫主《かんす》は即ち十万石の格式、各支院の院主は五万石の格式を与えられているところから、納所《なっしょ》の雛僧の末々に至るまでもかように権を誇っていたのは当り前です。
「ウフフ、こまい奴が十万石を小出しに致しおったな。鰯の頭も神信心、尼になっても女子《おなご》は女子じゃ。見物してならぬと言うなら、遊山致してつかわそうぞ」
 あちらへのそり、こちらへのそり、ウチワ太鼓、踊り狂ういやちこき善男善女の間を縫いながら、逃げのびた女やいずこぞとしきりに行方《ゆ
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