の不埒は即ち藩主の不埒じゃ。七十三万石何するものぞ。ましてや塵芥《ちりあくた》にも等しい陪臣共《またものども》が、大藩の威光を笠に着て、今のごとき横道な振舞い致したとあっては、よし天下のすべてが見逃そうとも、早乙女主水之介いち人は断じて容赦ならぬ。いや、面白いぞ、面白いぞ。島津が対手ならば、久方ぶりに肝《きも》ならしも出来ると申すものじゃ。街道の釣男、飛んだところで思わぬ大漁に会うたわい。では、追っつけ薩摩の行列、練って参るであろうな」
「はっ、恐らくあともう四半刻とは間があるまいと存じます。それゆえ今の二人も、うちの殿様の御容子がどんなか、こっそりと探りに飛んでいったに相違ござりませぬ」
「何のことじゃ、不意に異なこと申したようじゃが、うちの殿様とは、どなたのことじゃ」
「わたくし共長沢村の御領主様でござります」
「はてのう、一向に覚えないが、どなたのことじゃ」
「ぐずり松平のお殿様でござります」
「なに! ぐずり松平のお殿様とな! はてのう、きいたようでもあり、きかぬようでもあるが、その殿の御容子を探りに参るとは、一体どうした仔細じゃ」
「どうもこうもござりませぬ。ぐずり松平のお殿様と言えば、この街道を上り下り致しまするお大名方一統が頭の上らぬ御前でござります。ついこの先の街道わきに御陣屋がござりまするが、三代将軍様から何やら有難いお墨付とかを頂戴していられますとやらにて、いかな大藩の御大名方もこの街道を通りまする析、御陣屋の御門が閉まっておりさえすれば、通行勝手、半分なりとも御門が開いておりましたならば、御挨拶のしるしといたして御音物《ごいんもつ》を島台に一荷、もしも御殿様が御門の前にでもお出ましでござりましたら、馬に一駄の御貢物《おみつぎもの》を贈らねばならぬしきたりじゃそうにござります。それゆえ、今の二人も慌てて早馬飛ばしましたあたりから察しまするに、御陣屋の容子探りに先駆けしたに相違ござりませぬ」
「なるほどのう、それで分った。それで分った。漸く今思い出したわい。さては、ぐずり松平の御前とは、長沢松平《ながさわまつだいら》のお名で通る源七郎|君《ぎみ》のことでござったか。いや、ますます面白うなって参ったぞ。御前がこのお近くにおいでとは、ずんときびしく退屈払いが出来そうになったわい。素敵じゃ、素敵じゃ。島津七十三万石と四ツに組むには、またとない役者揃いじゃ」
退屈男は目を輝かして打ち喜びました。無理もない。まことぐずり松平の御前とは知る人ぞ知る、この東海道三河路の一角に蟠居《ばんきょ》する街道名物の、江戸徳川宗家にとっては由々しき御一門|御連枝《ごれんし》だったからです。即ち始祖は松平三|河守親則公《かわのかみちかのりこう》とおっしゃったお方で、神君家康公にとっては、実にそのお母方の血縁に当る由緒深い名家なのでした。それゆえにこそ、家康海内を一統するに及んで兵馬の権を掌握するや、長沢松平断絶すべからずとなして、御三男|忠輝公《ただてるこう》を御養子に送ってこれを相続せしめ、長沢の郷二千三百石をその知行所に当てた上、これを上野介《こうずけのすけ》に任官せしめて、特に格式三万石の恩典を与えました。即ち、その内実は二千三百石の微々たる御陣屋住いに過ぎないが、いざ表立ったところへ出る段になると、上野介の官位が物を言い、三万石の城持ち大名と同じその格式権威が物を言うと言う有難い恩典なのです。ところが、結果から言って、その恩典が、実は長沢松平家にとっては甚だ有難迷惑なものとなりました。と言うのは、なまじ格式ばかり三万石の恩典を与えられたために、世上の付き合い、道中の費用なぞ、いたずらに三万石並の失費が嵩《かさ》むばかりで、実際の収入はその十分の一の三千石にも足らない微禄だったところから、次第次第にふところ工合が怪しくなり出しました。しかしそれかといって、東照権現家康公のお母方につながる徳川御連枝中の御連枝なる名家が、まさかに無尽《むじん》を作って傾きかけた家産を救うことも出来ないところから、思い余ってその窮状を三代将軍家光公に訴えました。公は至っての御血筋思い、甚だこれを不憫《ふびん》に思召されて、忽ち書き与えたのが次のごとき御墨付です。
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「長沢松平家は宗祖《そうそ》もこれをお目かけ給いしところ、爾今諸大名は、東海道を上下道中致す場合、右長沢家に対して、各その禄高に相当したる挨拶あって然る者也。――諄和《じゅんな》、奨学両院《しょうがくりょういん》の別当、征夷大将軍、源家光」
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という物々しい一|札《さつ》なのです。まことにどうもこのお墨付の、相当したる挨拶というその挨拶の二字くらい、おびただしく意味深長な文字はない。征夷大将軍が城持ち大名に対《むか》って特に挨拶せいとのお声がかかったのであるから、今日は、さようなら、また会いましょう、失敬、なぞのなまやさしい挨拶では事が済まないのです。十万石は十万石並に、五十万石は五十万石並に、それぞれふところ工合に応じた挨拶をしなければならないのであるから、喜んだのは長沢松平家でした。いわゆる西国大名と名のつく大名だけでも、優に百二三十藩くらいはあるに相違ないのであるから、参覲交替《さんきんこうたい》の季節が訪れると共に、街道を上下の大名行列が数繁《かずしげ》くなるや、忽ち右の「挨拶」が御陣屋の玄関に山をなして、半年とたたぬうちに御金蔵が七戸前程殖えました。しかし、人窮すれば智慧が湧く、言わば迷惑なそのお墨付に対して、だんだんと智慧を絞り出したのは街道を上下の西国大名達です。道中するたびにいちいち行列をとめて、わざわざ乗物をおりたうえ、禄高に応じた手土産|音物《いんもつ》を献上してのち、何かと儀式やかましい御機嫌伺いの挨拶をするのが面倒なところから、中の才覚達者なのが考えついて、通行の一日前とか乃至は半日前に音物だけをこっそりと先に贈り届け、陣屋の御門を閉めておいて貰って、乗り物を降りる手数の省《はぶ》けるような工風を編み出しました。それが次第に嵩《こう》ずるうちに、大名共、だんだんと狡猾《こうかつ》になって、お墨付には別段音物付け届け手土産の金高質量を明記してなかったのを幸いに、いつのまにか千両は五百両にへり、五百両は二百両に減って、年ごとにその挨拶の相場が下落していったために、窮すれば人また通ず、甚だ小気味のいい妙計を案じ出したのが松平家です。それまでは一枚のお墨付を虎の子のように捧持して、子々係々居ながらに将軍家公許の通行税頂戴職を営んでいたが、上手《うわて》をいってこれを積極的に働かすことを案じ出し、分相応の付け届けを神妙に守る大名には門《かど》を閉めてやって通行勝手たること、少し足りないと思う者には、半分位門をあけておいて、もう一度挨拶金を追加させ、特に目立って、吝嗇《けち》な大名は、その行列が通行する頃を見計らって、松平の御前|自《みずか》ら何ということなく門前のあたりを徘徊《はいかい》しながら、いち段とやかましく礼儀をつくさせて、挨拶手土産献上品を程よく頂戴するように、巧みなお墨付利用法を編み出しました。就中《なかんずく》、当代源七郎君は、生来至っての御濶達《ごかったつ》。加うるに高貴の御血筋とも思えぬ程の飄逸《ひょういつ》な御気象に渡らせられたところから、大名共の手土産高を丹念な表に作り、これを道中神妙番付と名づけ、上から下へずっと等級をつけておいて、兎角、音物《いんもつ》献上品《けんじょうひん》を出しおしみ勝ちな大名が通行の際は、雨の日風の日の差別なく、御陣屋前の川に糸を垂れてこれを待ちうけながら、魚と共に大名釣を催されるのが、しきたりだったために、誰言うとなく奉ったのが即ちこの、世にも類稀《たぐいまれ》なぐずり松平の異名《いみょう》です。いかさま見様に依っては、その異名のごとくぐずることにもなったに違いないが、しかし、同じぐずりであったにしても、一国一城の主人《あるじ》を向うに廻してのことであるから、まことにやることが大きいと言うのほかはない。しかもぐずり御免のその御手形が、先の征夷大将軍家光公、お自ら認めて与えたお墨付たるに於ては、事《こと》自《おのずか》ら痛快事たるを免れないのです。それゆえにこそ、退屈男もまたこの際この場合、二人と得難きぐずり松平の御前が近くにおいでときいて、これぞ屈竟《くっきょう》の味方と、目を輝かしつつ打ち喜んだのは無理からぬことでした。まことに鬼に金棒、徳川御一門の松平姓を名乗るやんごとない御前をそのうしろ楯に備えておいたら、いかに島津の修理太夫が、七十三万石の大禄に心|奢《おご》り、大藩領主の権威を笠に着たとて、ぐずり御免のそのお墨付に物を言わせるまでもなく、葵《あおい》の御紋どころ一つを以てこれを土下座せしめる位、実に易々たる茶飯事だったからです。
「わははは、面白いぞ、面白いぞ、さては何じゃな、今の二人が陣屋の雲行《くもゆ》き、探りに参ったところを見ると、島津の太守、つね日頃より松平の御前の御見込みがわるいと見ゆるのう。そうであろう。どうじゃ、そのような噂聞かぬか」
「はい、聞きましてござります。いつもいつも献上品を出し渋り勝ちでござりますとやらにて、道中神妙番付面では、一番末の方じゃとか申すことでござります」
「左様か、左様か、いやますます筋書がお誂え通りになって参ったわい。然らば一つ馬の代五千頭分程も頂戴してつかわそうかな。御陣屋は街道のどの辺じゃ」
「ついあそこの曲り角を向うに折れますとすぐでござります」
「ほほう、そんなに近いか。では、早速に御前へお目通り願おうぞ。そちも早うこの馬弔うておいて、胸のすくところをとっくりと見物せい」
若者に教えられて、御陣屋目ざしながら出かけようとしたとき、いかさま容子探りに行ったのが事実であるらしく、足掻《あが》きを早めながら駈け戻って来たのは先刻のあの二人です。パッタリ顔が合うや否や、馬上の二人は、退屈男の俄かに底気味わるく落ち付き払い出した姿をみとめて、ぎょッと色めき立ちました。だが、今はもう退屈男にとっては、名もなき陪臣《またざむらい》の二人や三人、問題とするところでない。目ざす対手は、大隅《おおすみ》、薩摩《さつま》、日向《ひうが》三カ国の太守なる左近衛少将島津修理太夫《さこんえしょうしょうしまずしゅりだいふ》です。
「びくびく致すな、その方共なぞ、もう眼中にないわ。七十三万石が対手ぞよ。行け、行け、早う帰って忠義つくせい」
皮肉にあしらいながら馬上の二人をやりすごしておくと、五十三次名うての街道をわがもの顔に、のっしのっしと道を急ぎました。
三
折からそよそよと街道は夕風立って、落日前のひと刻の茜色《あかねいろ》に染められた大空は、この時愈々のどかに冴え渡り、わが退屈男の向う傷も、愈々また凄艶に冴え渡って、いっそもううれしい位です。――行くほどに急ぐほどに、いかさまそこの大きな曲りを曲ってしまうと、すぐ目の前の街道ばたにそのお陣屋がのぞまれました。知行高は僅かに二千三百石にすぎないが、さすがは歴代つづく由緒の深さを物語って、築地《ついじ》の高塀したる甍《いらか》の色も年古りて床しく、真八文字に打ち開かれた欅造りの御陣屋門に、徳川御連枝の権威を誇る三ツ葉葵の御定紋が、夕陽に映えてくっきりと輝くあたり、加賀、仙台、島津また何のそのと大藩大禄の威厳に屈しない退屈男も、その葵の御定紋眺めてはおのずと頭の下がる想いでした。襟を正して厳そかに威儀改めながら歩み近寄ろうとしたとき、計らずもその目を強く射たのは、御門の前の街道を隔てた川べりに糸を垂れていた異様極まりのない人々の姿です。まさしくそれこそは、ぐずり松平の御異名で呼ばれている源七郎|君《ぎみ》に違いない。だが、そのお姿の物々しさを見よ。同じ釣りは釣りであっても、さすがは将軍家御一門のやんごとない御前が戯れ遊ばす御清遊だけあって、只の釣り姿ではないのです。まんなかに源七郎君、右と左には年若いお茶坊主が各ひとり宛、うしろにはまだ前髪したる小姓が控えて、源
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